砂漏は蜂鳥の溺死体に何を遣るか
    著・榊蔡‐sai sakaki


  鍼。錆びたまま埋め込まれる。縒り上げた磁界は尚且つ絡まりの限度。ストリングスは断線する手前までテンションを上げると最も切実な声音を上げるか。電子顕微鏡で見る切断面は音の亡骸として、分子の別離は唯物に機能の継続を、憐憫は受けた時点で悲しみを終える。当たり前のように繰り返される旋律ほど胸からの喪失は完全に近く、例えば、それが当然で在ったこと以外なにを糸口に手探ればよいか。クラクションの怒声。アスファルトの粒子のなかには銀色のなにかが在り、纏まり、一斉にこちらへと届きながら路面の色を定義する。一度壊したなら全てが終わる。細胞膜にニュートリノが刺さり続けていてそれが痛い。何かが物質の影からこちらを窺っている。最小の兼合いが乖離し、スポンジ状になった日常の隙間から覗き込む視線が、体温を奪い続けてゆく。否、そうでなければ、何かを窺い続けている。ああ、凍えるように、世界が暑い。

  霞んだ街並みのなかを亡霊のような人影が擦れ違ってゆく。季節の不意を突いた五月の熱は、身構えぬ者の呼吸を焼くように大気の底辺で人界の層をぼやけさせている。暑熱は、打ち捨てられたアルミ缶の縁に、高層建築に貼り付けられた板硝子に液化して砕け、冬着を纏い、次々と噴き出す額の汗を拭う壮年の男に絡みつき彼に鼻息を荒げさせ、束の間の微風さえ音も無く透過し、辺り一面で密閉される。熱に軋み、時折冷汗をかかせる偏頭痛が、痛みの予感をも痛みにし蔓延り続けている。それは見上げる紺碧の向こう、寒々とした静寂を漂う廃棄衛生の幾つもが、ノイズを紙縒りと尖らせる痛みの切っ掛けをこの頭蓋へと差し込んでくるらしかった。不快の何たるかを知り尽くした痛みが多角的に不意を突き、漸く公園の敷地へと辿り着くこの足取りをも思いもよらず立ち止まらせ、右斜めから一線に突き抜けた痛み越しに視界へと在るそのベンチには、今日も誰も居ない。
  パッケージされた鉱水で額を冷やす。陽射しは樹脂の波打ちとそれが纏う水滴で跳ねあちらこちらになる。幾筋かが顰める睫の先を掠め眼窩の内を橙色の気配にする。ベンチの背凭れは肩甲骨の上に痛く、老朽に重ね塗られたかの塗料の凹凸が、姿勢を変える度に骨身に食い込む。鉱水は含む度に粘液の乏しい食道を渋くするようで、そうやって胃の底に落ちてからも混じり合わず、重く膜を張り浮かぶ様。耳朶と舌の根が交差する辺りには絶えず続け様の嚥下を期待する部分が在り、再び含むと、臓の腑で一連の違和を唱え蓄積しゆっくりと体温になる。全てを吐き出したく、しかしこの体内に在る液体と世界との隔てであることだけが、今現在、何かへ向け足掻いている。一度不快な伸びをし、薄いシャツ越しに背凭れの痛みを諦める。
  手の平で目庇をつくる。流れる雲は、鯨の死骸が見上げる流氷。比べれば尚蒼い成層圏の手前を、見上げる頭上へ向け流れてゆく。束の間、陽射しの熱が涼感と誤解され、背筋を急速に、急速に引き締める。鯨は、最期の呼気をその背に漏らし、時間はいま、雲の流れる見て呉れの速度で、置き去りにした日常を、全世界を、背後から前方に向け遠退かせてゆく。置き去りにされたのははたしてどちらか。考えるまでもない。
  深く息を吸い、細くゆっくりと吐く。体内で饐えゆくアルコールは、肺の底でも腐蝕の臭気を澱ませていよう。何故、週日にこれほどの深酒をしたのか。頭痛と吐き気との共存を罰と受けながらも、いまこの背筋の痛み、そして何より陽射しの熱が我慢ならない。耳の奥で憤りのリズムを数え背凭れを離れる。瞬時に頭痛が針打たれ、目庇の手を添えていた額の一部だけが涼風を知る。燦々の陽射し、それを銀色に返す敷地の土、あらゆるものが、光の白を誇張し認識を強いてくる。白は細やかな硝子片を多分に含み、眼窩と眼球の隙間で微細な掻き傷をつくる。瞼を閉じても、それは入り込んでくる。
  こうして空を見上げ、身動きがとれぬまま死にゆく生物が、現在世界中にどれほど存在しているだろうか。不快すら倦怠する辛辣、その高鳴りに立つような耳に、聞き馴染んだこの公園の背景音が在る。遠方に、少しずつ密度を募り迫るジェット機の離陸音。層を隔て、一帯の風向きに漂うように保育所の遊戯曲が聞こえている。それは座りの悪いラジオノイズのように距離を不確かにしていて、保母のちらつかせる拡声器の音が膨張すると最果てになり、静まるとそこへ戻る。再びハウリングし、パルスが節度無く拡散すると、一定の速度で軸を斜にし、限度の手前で事切れる。あいちゃん、もう少し後ろにさがってね。ハウリング。事切れる。横を見てみんなと列を合わせて下さい。ハウリング。ギターのディストーションノイズのように滑らかに伸び事切れる。四方それぞれの位置、欠片のように点在する雀たちの鳴き声が、この空間に残る唯一の広がり。そうやって、偽薬のような説得力で呼吸の余地を教えている。しかしそれもいま、ゆっくりと終わろうとしている。意識の隅でそれと知る切迫。いよいよ全てが隅々まで染め上げられる一様の轟音。ジェット機の翼がこの公園に刹那の日蝕を起こす。束の間寒気が駆け、大地とその上に載る町並みを右から左へ、蒼く、蒼暗く。そして右から左へ元へ戻る。轟音のなか、収束し芯となる金属質の直線が空に残され、聴覚を持たぬ物質の数々にまで軌跡を押し付ける。遠退くときはやはり長波に偏り、景色もそれを忘れてゆく。再生は、静かに認識を待つように、当然ここに在るように。辺りはこの日和。近隣に、国際空港を持つこの地域、然るにこの公園、機影が落ちるのは周知のこと。
  二面は居住区に沿う路地、一面は町工場の真新しいプレハブ、残る一面に沿う路地はやや広く、付近の住民が路上駐車をその常にしている。敷地の角には、垣根木と雑木が半ば叢がり木立のようになる一劃が在る。そこで木陰は色濃く、下生える青芝の葉丈が微風をも捉えるようで、恐らくは画像でしかないその涼感を教えてよこす。その向こう、垣根木、外柵の金網越しに見通せば、本来この時分、それを走らせ得意先へと在庫確認に伺わなければならぬ筈の車両、煤けた白のライトバンが、忌まわしい日常と共に静物化している。眺める間にも、時間は刻一刻と世界だけに積み重なり、諦めは焦心と交差し打ち消し合い無駄なカロリーを放熱する。義務や責務は灰色の距離感で動作を産まず、高圧的な逃避の誘いだけが唯一衝動をくれ、それに身を任せ骨を軋ませつつ取り出した携帯電話の液晶画面に、世界は未だ秩序のなか。しかし電源を落としたいま、その接続も断たれた。鉱水のボトルをベンチの羽目板に据え、直ぐに痛みを覚えるだろう背凭れに身を任せ、きつく目を閉じ、陽射しの下に降伏する。白は全てに染み入りながら、肉体の実在性を浮き立たせ、同時に孤立化してゆく。いっそその熱で、体内のアルコール諸共、この精神、この、思考の全てを漂白してくれぬか。居たくはない。存在自体が、全ての接点を痛みに覚え、その、擦り傷のように一面となる不快の膜で圧迫し、この主観を気の遠くなるような時間密度で窒息させるのだから。

  熱。光彩。殆ど嘘のような白。
  それなのに、
  益々白を重ねてゆく。

  この人だれ?ママ、死んでるの?
  いいから!こっちに来なさい!

  影。
  影が走る。否。雲が駆ける。
  白は浜辺に横たわる肉体の記憶。
  潮騒。嘘は自身に暴かれる。

  影。機影か。
  熱と轟音が在るのだが。

  真一、人のことじろじろ見るんじゃありません。
  自動販売機で缶ジュースが買われるときの予想より大きな音。
  ママー!
  有難うゴザイマス。皆様の清き一票で、

  何時しか海底は血液の温度になってしまう。
  鯨の死骸は、
  はたして、
  海の底へと沈むのだろうか。
  沈んでいる。

  ところでさあ、あれ、もう買った?
  あいつら何時もそうだよね。
  え!ホント!

  影。
  影が瞬間を教えてくれる。
  影が過ぎ去る。
  気が遠退く。
  が、
  否、

  否。絶えず、雀の鳴き声は聞こえていた気がする。いまはゆるやかに静まり、しかし聞こえていて、聞こえ続けている。繰り返しに耳元に置かれる音景のなか、とある予感、そして全ての空間が隅々まで塗り潰され、埋め尽くされ、ピークを立方に揃えながら迫り来る。迫り来る。轟音のなかにも、芯を直線に凄まじい金属の摩擦音。空を削ってゆく。迫り来る。限度を超える。ああ、堪え難い。
  息を呑む。息を止める。板バネのように跳ね起き、機影が右から斜めに、こちらに襲い掛かるのを見る。黒い機体が全てを覆い、焼かれた肌を瞬時に凍てつかせ、恐ろしい速度で頭上に抜ける。大きな質量の何かが、頭蓋のなかを蹂躙し、後頭部を破壊した。轟音が空間を埋め、更なる膨張を続けると内耳をも埋める。動悸を堪え、スラックスの膝を掴み、革靴の艶やかな先端を射抜き、焦点にしてしがみつく。心の体積が、肉体の在り方に遅れ凝縮してゆく不安が止まない。霞む視界。切願する樹海の静謐。漸く飲み込む唾液の味と、手の平にみる銀の粉。陽射しが首筋を焼き始め、スズメ、鳴いている。
  公園は静まり返っている。もとのまま、誰もいない。はたして、夢であったのか、その世界の住人たち。


  息を呑む認識により、時間の欠落を感覚する。辺りは静まり返っていて、敷地に沿う路地を歩く主婦らの語らいが、話題を不確かに届いている。空間は冷汗に澄んでいる。この公園の全てをいま、寝違えたように首の痛みを摩る、独りの男が独占していた。向こうを歩く、眼鏡を掛けた蟋蟀のような痩身の主婦がこちらを見て遣し、話に相槌を打ちつつもその無感動な眼差しを前へと戻した。白日の陽射しの下、乱れたスーツで酔いを覚ます哀れな男の姿をいま、外界から眺める破目になる。週日に独り、何故これほどの深酒をしたのか。昨日までは、有り体な日常が滑らかに進行していただろうに。先週末には、それが弱小企業ながらも、新規に顧客を持つこともでき、えてしてその殆どを縁故で結ぶこの業界にそれは稀有な事実の筈。繰り返し頭を下げ、受注し、天候を話題にし、その場その場で担当者の嗜好を思い出す。相思に気怠げな予定調和こそが、最たる心得と進行する、あの日常。とある中小企業の担当者は、こちらが対人に関する嫌いの全てを見透かしていた。寧ろその上で振舞われる愛嬌、諂いを、気付いているぞと宣告するあの灰色の眼差しにしてよこしてきた。理想的な笑みのなかで、眼球だけが別の動作をする。それを見て取れば、相手が見て取る事実を知る。再びその事実を知れば、合わせ鏡が途方も無い距離を連ねてゆく。林間。雑木林の深緑。弟が自転車の後輪で踏んだカブトムシの成れ果ては、どす黒い何かの雑じる体液を拉げた甲羅の内よりはみ出させた。あれほど硬質な印象を生きる生物なのに、体内には得体の知れぬものを含んでいるのだ。あれから幾つの夏が過ぎただろう。弟は不快な眼差しを前へ戻すと、虫籠の樹脂にしがみつく残りの甲虫を眺め、振り返り、いまは思い出せない何かを言った。笑みは苦い。気が付けば同じ顔を作ろうとしている。蝉の声が、砕けながら遠退いていく。
  全てがそうだと言うのではない。この日常に、生の実感を見出せる日々も在った。町並みは光に溢れ、誰もが各々の理由を守りながらも、互いに労わり合っているように見えた。人々は環になり、世界を、曖昧ながらも前向きな意義に拠り少しずつ向上させていると錯覚できた。大気はとても軽く、風は柔らかく体温を撫ぜ、空はどこまでもその距離を伸ばし、あらゆる可能性を選択の梢に提げた。歌だった。その日をタイトルにする、一度きりの歌。


  瞼が焼かれてゆく。厚く疎らな、鯨の死骸が見上げる流氷のような雲が流れ、零れ落ちたフォトンの群れに世界が討たれる。敷地の土が銀色を返すと、熱波はその上に錯乱し、シャツの繊維を些かなりにも認めずに擦り抜けて肌を押さえる。肌は熱を発する。銀色は白へと向かい、背丈で届くだろう小さな雲梯、三段に並び低く堅牢な鉄棒、微動だにしないシーソーとブランコ、いつしかペンキ自体となった古タイヤの半弧、それぞれの塗料に手垢に反射し、押し寄せる。滑り台はコンクリートの土台を固着し、そこに穿たれる穴蔵は唯一の黒を見せ付け、頂から下るスロープは緩やかに蛇行し砂場へと辿り着く。そしてそこには一人の少年の姿が在る。擦り硝子の視界に独り、少年が、砂場に向け、しゃがみ込んでいる。
  流氷を漂わす空、雑然を音も無く焼かれる大地の狭間には、夥しい量のフォトンが溢れている。この公園の遊具、特にジャングルジムなどの唯物的な佇まい、そして住宅やその向こうに頭出す高層建築の頂など、全てが視線を受けるだけの対象物としてそこに在り、形而下を抜け出せず、見て呉れの全世界として呼吸を止めている。そのなかに一点、小さな少年の背だけが理由を持ち、生きていて、砂山を固めようと叩く動作を前後に揺らしながら実在している。それを認識する生命が現れなければこの宇宙も無きに等しい、という言葉。少年ははたして、いつからそこにいるのだろうか。血の味を思わせる遊具の鉄錆臭が、思考を、その小さな背へと募らせてゆく。世界は、その他全体で沈黙を残したまま、景色さえ、彼を包んで画像を溶かす。
  反り返った半ズボンのよれた縁と、Tシャツの裾との間には、白い下着のゴムと、どこか犀の角を思わせる、はっきりとした背骨の連なりが覗いている。裸足の踵は、尻の下に二つ、球のように見えながら靴底を離れたりしている。それは砂山を叩く少年の動作に反復していて、踵を踏み潰されるその靴は薄い化学繊維でできている。砂山を叩く動作は繰り返され、その時折にそうやって踵は浮き、叩かれる砂山はくぐもった音、乾いた音と鳴り止まず、どうやらこうしてこれまでも聞こえていたらしかった。
  少年は汗を拭うような仕草をする。仕草に戻る肘頭には、アズキ色の血蓋が見える。今し方、掻いたのだろうか、それは溶岩に走る亀裂と似たものを持ち、流れ出る血液は赤を透き通る赤。血は、色褪せた水色のTシャツの脇にも付着していて、それは黒く見える。公園は、血の味のような鉄錆臭を漂わせている。
  ペットボトルの鉱水は体温より温かく、含むと嚥下を追い、ミネラルと覚しき匂い、共に充満する樹脂の匂いを鼻腔に残し、ゆっくり呼吸に流れると、遊具の鉄錆臭を再知させる。
  滑らかに大地が銀へと焼かれ、思うよりも光に溢れ返ると、同じ速度で滑らかに基の明るさになった。鯨の死骸が見上げる筈の、流氷じみて鮮明な雲が、思わぬ布置になっている。時間は息を呑む瞬間に存在し、この世界に意識を持つ者は、飛び石の波紋を印象と胸に嗅ぎ、感応を繋げ、回想の頼りを一つずつ築いてゆくのであろう。大地が少し陰り、薄い雲の波打ちを映すと即座に戻った。
  郵便配達の二輪車が、消音器に宥められたエンジン音を余韻にする。一度変速し、金属音を鳴らすと、角を曲り視界に消えた。
  金網の向こう、グレーのトレーナーを上下に着る禿頭の男が、道すがら散歩に連れる柴犬を仕付け、その言葉を繰り返している。犬は一向に応える気配もなく、鼻先で舗石を擦り続け斜めに歩く。飼い主はそれを眺めつつ無気力に引き摺られ、時折、辺りを見回しては、首輪の鎖を引いたりしている。
  唐突に全身を鳥肌が駆ける。皮膚の上に並べられた感覚の突起が、大気の加減と世界の実在性を窺っている。諦めるように違和感を無くし、これまでそうで在ったのと同じように元へと居座る。背凭れに背が軋み、座りなおそうと羽目板に手の平を突けば、指先が不意の粘り気を触覚した。眼差すそこには何もない。痺れた指先の感覚と、陽射しに軟化した塗料の質感が、在りもしない何かを創造したのだ。例え実在せずとも、一度刷り込まれたその記憶に、ディティールの再現は後を絶たない。
  時刻を見る。一度銀色になってから文字盤が映る。既に取り返しのつかない時間になっていて、束の間、背筋を冷たいものが過ぎる。事態を清算する釈明の有無を思い、いくつかの筋書きを立てる。ペットボトルを空にし、円柱状の屑籠の縁にむけ投げ遣るとそれは縁に跳ね、対に跳ね、なかに収まった。少年が振り返り、そして前を向く。ペットボトルはいまは動かず、白の塗料を錆が浮かす網目模様のなか綺羅綺羅としている。その上に、怖々と振り返った少年の、小動物のような眼差しが留まり続けている。


  既に致し方ない。放任はいつも心地よく、心を上向かせてくれる。こうして次々と全てを投げ遣り続け、あらゆる理由から解放されようか。如何なるものとも関わりを持たず、触れず、何も求めない。その開放感だけで胸を満たし、干渉のできなくなった世界が頭上で渦巻くのを、こうして唯一眺めていたい。事柄の一つ一つが複雑に、それでいて一様にも見える統計の壮観を眺め、同情を平然とそれぞれの感情に楽しみ、呵責の及ばないこの海底で、まるで鯨の死骸のように横たわり日々を鑑賞し続けたい。とても澄んでいて、それなのに完全な青を続ける水深の擁護。優しく、柔らかく抱かれながら、遠くで踊る水面の光が、溶けながら次々と模様を発想さているのを眺めていよう。呼吸はいらない。海草のように流れに揺らめき、オーロラのような光を浴びよう。元来毒素で在った酸を熱源にしたが為、複雑化した肉体の有様を離れ、漠たる存在に戻るのだ。世界はその上で、微笑ましい日常を続けてくれることだろう。自己の完全なる放棄、その、あらゆるエッジを包み込むゼリー状の分泌物、薄膜。背にする海溝の奥底では、あたかも終わらない耳鳴りのように、ひたすら上司に弁解を続ける一人の男の印象が、細く震え続けている。そうやって、津波のように押し寄せ心の容積を埋め尽くす可能性を対極で燻り、消す術を受け入れない。海底は、水温を鋭利にし比重を上げる。陽射しが急速に瞼への距離を縮め、白が溢れ返る。


  金網の向こう、小学生の女の子が、二人で立ち止まる。手の平の上で何かを見せ合い、耳打ちして微笑むと眼を円くし声にして笑った。午後の陽射しは時間の速度で降り積もり、音も無く溶けながら、場面を、静止画を捲るようにして移ろわす。
  幾分暑熱も和らぎ、その、取り冷まされる経過自体が一つの温度になっている。不快がゆっくりと解決してゆく。それもやはり静止画を捲る振る舞いで、気付き取るそれぞれの連続が、それぞれ一段階の解放をくれるのだ。滑り台を滑る為には梯子を登らなくてはならない、記憶の誰か、或いは、活字を追った自らの声が耳打ちする。この公園の滑り台はコンクリートの塊。梯子の代わりには階段が設けられている。
  ここからは文字盤が見えぬ角度で、黒い柱状の敷設時計が立っている。砂場の少年がそれを見遣り、再び砂山を叩き始めた。少年の周囲には、既に幾つかの山並みが並んでいて、思うところの地形とやらを、その直向な作業で再現しているらしかった。彼には理由が在るのだろう、思索に分解される前に、衝動となる、速度を持った理由が。いまは日常を動作する、彼の周りに広がる全世界も、そうやって築き上げられたに違いない。
  正面に見える金網越しに、下校の児童が、一人、又一人と目に付くようになった。午後に差し掛かったばかりのこの時刻に、何か行事の都合といった日課の切り上げを連想する。児童らは、足許を見詰めながら、それぞれ疎らに歩いていく。一人の児童がそこを走り抜け、そのなかの一人、肥満する児童の後頭部をここにまで届く音をたて叩いた。二人は黄色い声で何かを罵り合い、叩いた児童は最後にそれをからかいながら、元の方向に走り戻る。彼は後ろから現れた仲間の児童に横並び、そこから肥満の児童へ罵声を掛けた。肥満の児童は、上半身ごと捻るようにして肩越しに振り返ると、この日、彼の人生で初めて、これから終生構えることになるシニカルな笑みを事の解決にした。グループには中心を歩く背の高い児童がいて、その成り行きを平然の眼差しで眺めている。彼は傍らを歩く児童との会話に気を取られつつも、人好きのする眼差しを振舞っている。その周囲には、二人の会話を耳に歩く児童らが歩いていて、グループは交差するそれら雑然とした声と共に移動してゆく。車のクラクションが、道を譲り合うときのタイミングで、少し離れたそこから二つ鳴った。グループとグループの声がゆっくりと公園を離れてゆく。金網の向こう、下校の波は、本来の密度となる。
  それら漠然と続く会話の流れの手前を、不意に現われる声を耳にする。見遣れば、まるで聖域のように区分されていた筈だったこの公園の領土を、何者かが侵している。その新しいグループは、敷地の横手よりこの聖域を横切り、対になる横手に並ぶ鉄棒の支柱に寄り掛かると、カバンをそこに掛けるなりし、この聖域を、その無邪気な笑い声で彼らの日常に染めた。彼ら高学年の児童らは、金網の向こうを流れる児童らに声を掛け、又、時折向こうへと指差しながら含み笑い、彼らだけで耳打ちするように話したりして、まるで世慣れた様子を振舞っている。砂場の少年が、それをちらと窺い、再び砂山を叩きだす。両者の間に、互いへの認識が生まれたらしく、それが見て取れる。
  この公園が個人に支配できないのと同じで、世界は雑たる兼合いを音景に例えるように、ゆっくりとその密度を上げ、動かぬ者を置き去りにしてゆく。職場では、多少なりにも混乱が在るだろうし、又、難無くそれは解決され、個人の必要性など跡形無く否定されているかもしれない。動かぬ者は、動かぬことでそれを試すのかもしれなく、そしてそんな人間に対し、例えば、まるで異国の童のように見える児童らの声、異境の生活音のように響く自動車の走行音、私鉄の踏み切りが遠くで鳴り出す様子などの全てが、動かぬ者を尻目にしながら進行し、無気力な、しかしながら否定したくもできない居心地を持つ堕落の泥で包み込み対比させてゆく。日和と共に気分は上向いている。それで在りながらも、肉体の辛辣を離れたこの胸は、平熱の判断基準で事態を他人事のように静観し、解決やそれへの思惟を蔑ろにし、寧ろこうやって置き去りにされるがまま、人間社会の戒律それ自体に審判を下されるのを待ち侘び、同時にその猶予を引き伸ばしてくれぬか、と交錯する。聖域と仮想したこの公園ですら、神聖な堕落を汚されたとゆうのに、逃れる気力も無いままで、ベンチに背凭れる肉体のなか居座り続けるのは何故か。網膜に張り付く画像のなかでは、児童の一人が動作し、何かをいま、起こそうとしている。何かがいま始まる。清潔に乾いた細粒の砂が、細く触れ合うあの質感。ああ、覚えている。
  耳が隠れるほどに髪を伸ばした色白の児童が、鉄棒に背を押し付けながら足を揺らしている。児童は漫画雑誌を読み耽っていて、その傍らで雑誌を覗き込むような様子でいる、恐らくはリーダー的存在であろう児童に話し掛けられるとページから眼を離した。彼は相槌を打ちつつ、前方の虚空に笑みを遣る。話し掛けた児童は、その相槌に身体を折りながら、変声期を終えたばかりのような太い笑い声を響かせる。声は大きく、そして大袈裟で、対になるジャングルジムの横棒を椅子代わりに携帯ゲーム機を覗き込む児童、鉄棒に寄り掛りながらも、先より無言で曖昧な表情を続ける背の高い面長の児童をも巻き込み辺り一帯に響き渡る。話題を尋ねるかの表情で、携帯ゲーム機を持つ児童が顔を見上げる。発色の良い、ネービーブルーに白いラインのトッラクスーツを着る、リーダー格の児童が何かを言った。グループは顔を見合わせて笑いだす。向こうに位置する、背の高い面長の児童が、それを確かめるように少し遅れ、自身の鼻先を見るような笑みにした。色白の児童が、揺らし続けていたその足で、足許に在る石の礫を蹴り上げる。礫は、ランニングシューズの尖端で軽い音をたて、公園の空間を横切りに線を伸ばす。時間が引き伸ばされ、残像の溶け合う軌跡が、その線を伸ばしてゆく。
  浅い角度で三度跳ね、最後に転がりながら辿り着く砂場の縁で、礫は唐突に静止した。砂山を叩く少年の首筋が、微かに強張るのが判る。辺りには当然の日常が続いて、少年も依然砂山を叩いていて、グループの話題も続いている。正面の路地では、銀色のセダンが徐行で現れ、児童の列その一部が会釈を向ける様子から、それが教員の車両だと判る。大きな声で挨拶する低学年の児童もいて、教員の人望が窺える。セダンは暫く走るとその先で停止し、ウインドウを下ろし、高学年の児童を立ち止まらせた。児童は車内に向け、笑いながら愛嬌の良い返答を繰り返している。ここからは教員の性別すら判らない。
  最後尾と想われる下校の波は、最初に眼にした児童らと似ている。それぞれ疎らになる距離を保ちながら、安定しない足取りで足許を見詰め歩いてゆく。その上で五月の空は、これまでの不快を嘘にして澄み渡り、鯨の死骸が見上げる筈のあの雲でさえ氷塊を溶かし、地上を尻目に高度を上げている。呼吸でゆっくりと胸を満たすと、酸が細胞に染み渡るのが解る。これから起こる全てに対し、この主観が身構えているのだ。細く縊れる硝子の筒に囚われた清潔な砂が、触れ合いながらトキの接続を数えてゆく。音。砂の些細な摩擦。記憶が蓄積することを視覚できるような砂の円錐。いま、何者かの手で、台座の木枠が逆さにされ、転じた記憶自体は流砂と流れ、落ち、再びトキを数え始める。砂漏は、この、蜂鳥の溺死体に何を遣るのだろうか?


  耳にまで髪の掛かる色白の児童が、読み終わったらしい漫画雑誌を、トッラクスーツの児童に渡した。受け取る児童は、しゃがみ込むと背筋を鉄棒の支柱に寄り掛け、自らの踵へ体重を載せるような姿勢にしページを開く。上から見下ろすようにして、色白の児童が何かを言った。見上げる児童は、ページを指差しながら笑みを返す。正面で携帯ゲーム機を覗き込む児童が、それに曖昧な一瞥を遣ると、直ぐ様、手の平の世界に戻った。背丈のある面長の児童は、いつまでも鼻の辺りを掻き続けている。肘の辺りを掻き、再び鼻の下を掻き始めた。回転翼で大気を叩きながら、副翼の軍用ヘリコプターが上空を旋回してゆく。グループの全員が、気に留めるほどのことでもないというような様子で空を見上げると、それは元の方角へ向け水平を取り戻した。その音が遠退くのと引き換えに届く声は、色白の児童の嬌声であり、それは背丈の有る児童をからかおうと小突きながら発せられている。受ける面長の児童は、遂に堪え切れぬといったその様子で、笑いながら仕返しを小突く。戯れる仲間を笑うのか、雑誌の記載を笑うのか定かでないが、リーダー格の児童は依然しゃがみながら膝の上のページを見詰めている。色白の児童が鉄棒に寄り掛り、再び足を揺らし始めた。軍用ヘリコプターは向こうへ向け点になろうとしている。砂場の少年が手の甲で汗を拭い、空を見上げると前屈み再び砂山を叩く。色白の児童が、揺らし続けるランニングシューズを一際後ろへ引き、程良く足許に在る石の礫を蹴り上げた。面長の児童が、鼻先を掻く手を止める。礫が軌跡の残像を線に溶かしながら、明らかに先より勢い付きその弧を伸ばす。それは一度土に跳ね、再度跳ね、希薄な砂煙を残しながら線を伸ばす。老朽したベンチの背凭れに組まれる羽目板が、この主観の手の平に食い込んで痛みを刻み込む。トラックスーツの児童が、漫画雑誌のページから眼球だけをそこへ向けると、礫は再三跳ねた後、砂場の少年の肩に当たった。
  然程の痛みではないであろう、しかし礫は、少年がグループに向け張り巡らせていた警戒の障壁を、彼自身の不意を突きすり抜け、緊張の矢となりその肩に刺さった。少年は肩を縮め、低い鉄棒の並ぶグループの方向へ咄嗟に向こうとし、その首の動きを、四分の一ほどの角度で強張らせると、不自然な空白のリズムを置き砂山を叩き出す。ネービーブルーのトラックスーツを着るリーダー格の児童が、上目遣いで見ていたその様子に、どこか憐憫を掛けるような表情を翳らせ、漫画雑誌に見直った。面長の児童は本人の意図せぬ動作でゆっくりと鼻先を掻き、弱々しい笑みで左右を向く。華奢な体格の、髪が耳にまで掛かる色白の児童が、揺らしていた足を止め、砂場の少年に向け訝る高圧的な眼差しを遣り続けている。それでも彼は、礫が少年の肩を捉えようという刹那には、口蓋が黒く見えるほどに口を開け、怯えるような表情で畏縮していたのだ。彼はいま、その事実をも無きものしようとでもいうような平然を装い、面長の児童へ向け何かを言った。鉄棒の支柱に背筋を添えしゃがみ続けるリーダー格の児童が、意識下に有る無表情で、丁寧にページを捲る。面長の児童がぎこちなく笑い、路地に向け視線を泳がす。携帯ゲーム機を覗き込む児童が、左右をちらと見、元に戻る。陽射しが雲に遮られ、辺りの色彩が失われてゆく。
  漠然とした空間で在った筈のこの公園が、対になる意識の骨格を内包し、その相対的背景として息を潜め始めた。グループの児童らは、未だ彼らの日常を続けつつ時折会話している。しかしその一人一人が、意識の何割かを砂場の少年に残し、それが念入りに結ばれた艫綱のように自由を制約し続け、先までの気儘な振る舞いを装いの上で行われる色褪せた馴れ合いに変えたかの様。砂場の少年は砂山を叩き続け、その間隔、又、動作の一つ一つは強張る背によりぎこちなく、義務的なものに見える。そしてこの老朽したベンチには、それらどちらからも意識されずに、まるで岸辺に打ち上げられた溺死体のような格好で、背凭れに片肘を掛け斜めになる男が、顎を上げ空に降伏したまま、自らの頬骨の上に少年らの画像を載せ眼を細めているのだ。傍聴席としては些か遠く、静観する為には差し支えないこの海底で、絶えず意識に在る砂の囁きに釈然としないものを感じながら、その、忌み嫌い、同時に懐かしくも在る趣きで思考を浸し、理解しようと努め続けている。気温、そして血の味のような鉄錆臭、頬に射す陽光の乾いた質感、既視感はその印象を止めず、何かを気付かせる為の舞台装置として再びここに在りながらも、それを理解できないもどかしさに、位置的な時間の進行感だけが、積み重なってゆく。思えば、筋張る身体を軋ませながら、まるでこの惑星の重力に押し潰されたかように、この居心地の悪いベンチの上に居続けるのでさえ、いったい何故のなのか解らない。
  ベンチは砂場の少年寄りに位置している。従って、いま砂場へと近付きつつ在る色白の児童は、同時にこちらへと近付きつつも在る。彼はその、どこか女性的な眼差しを左右に漂わせながら、濃紺のジーンズのベルトに両の親指を掛け、細い肩をそびやかし、ランニングシューズの靴底で均等に砂を擦るようにして、近付いてくる。彼は砂場の縁で立ち止まる。仲間の居る鉄棒の列へと振返り、口元だけを笑いの形に歪めると向き直り、見下ろす少年に向け小声で何かを尋ねた。砂場の少年は砂山を叩き続けている。色白の児童が頬を引き攣らせると、即座にそれが限度になる。こいつ応えねーよ。児童は仲間を振返り、上擦る声を上げた。少年は動作を止めず、その背は尚更に強張り、叩かれる砂音は一際低くくぐもり始める。色白の児童は少年を覗き込みながら、女性的にも見えるその眼差しで表情を固めている。彼はベルトに両の親指を掛け肩をそびやかすその姿勢のまま、片足を上げると、靴の尖で少年の肩を押し遣った。
  真新しいランニングシューズの、歯車のように模られ、尖端で捲れ上がる靴底が、少年の色褪せたTシャツに噛んだ。押し遣る速度には遠慮が有ったが、引き戻される動作に、そうやってシャツの繊維が釣られ、少年を色白の児童へ向け傾がせた。少年は、片腕を支えに姿勢を堪えている。頑なに砂山を叩く動作を続け、元の姿勢を取り戻そうとしている。彼は懸命にしゃがみ直すと、首を縮め背を強張らせ、ひたすら砂山を叩き続ける。色褪せた水色のTシャツは伸びた首周りを引き攣らせてしまい、彼の片側の肩は半ば露出している。少年の肌は、見下ろす児童のそれ以上に白く、陽射しに晒され痛々しく見える。
  事態は連鎖の切っ掛けを境に、収束に向け作動しようというのか。砂場の少年は、砂山を叩き続けることだけを盾のように構えている。公園はそのくぐもった音に満たされていて、誰もがそれを耳にしている。
  髪が耳にまで掛かる色白の児童には、もはや成り行きを左右する力が無い。肩をそびやかすその姿勢で少年を見下ろしながら、ひたすら自身の呼吸を聞き続けている。彼はいま、眼に掛かる前髪を煩わしく思うような仕草で、細い顎尖を二度震わせた。砂場の少年を見下ろし続けている。
  鉄棒の並ぶ周辺では、先からリーダー格の少年が事態を見詰めている。彼は膝の上に載せた漫画雑誌をも忘れてしまったかの様子で、上目遣いのまま身動きしない。背の高い面長の児童は忙しなく周囲を見回しながら、そうやって、意味不明な笑みを辺りに撒き散らし、途端に仲間の様子を窺おうとそちら向く。ジャングルジムの横棒に腰掛ける児童だけはそのままで、時折、肩を揺らすほどに携帯ゲーム機を操作する他は一向に変わらない。そして彼らの周囲にも、やはり少年が叩き続ける砂山の音が届いていて、その義務的なリズムを辞めていない。それは何かに向け、積み重なるように切々と続いてゆく。
  こいつ応えねーよ。声には力が無く、周囲が聞き耳を立てるこの状況でなくては、誰の耳にも届かぬような声量だった。華奢な色白の児童は、仲間に向けていた躰を向き直り、少年を見下ろすと、再び小声で何かを尋ねる。そして返答を待つまでもなく、ランニングシューズの尖端で、少年の、半ズボンより露出する白い太腿を突いた。赤革のベルトに掛けていた右手の親指を離すと、だらりと揃えた指先の甲で少年の頬から額の辺りを繰り返しはたき始める。少年は、細かく首を震わせて堪えている。それでもついに砂山を叩く手を上げ、打たれるその手を払うように打ち返した。二人の手の甲がぶつかり、思いの外際立つ音になった。色白の児童の女性的にも見える眼差しが、再び砂山を叩き始める少年に向け、それを射抜くような形相となる。同時に、砂場の少年がそちらへ向け上向いた。しかしそれは、色白の児童を見上げたのではなく、その向こうに聳えるこの公園の敷設時計を捉えようというもの。ここから横顔に見えるその眼差しには、何か一縷の希望に縋るような懇願が見て取れる。少年は時刻を把握したのか直ぐ様下向き、砂山をひたすら叩き続ける。色白の児童が手の平を引き、勢い付けたその甲で少年の額を打つ。それは硬質な音を響かせ、少年を向こうへ向け崩れさせた。肘を突き砂山に減り込んだ少年が、咄嗟に掴んだ一握りの砂を色白の児童に向け投げる。黒々とした砂の塊が細やかに分散し、距離感を錯覚させるような点画を広げ、やはりその中央に立つ児童の輪郭を刳り抜くようにその背後へと過ぎながら、衣類に砂が叩き付けられる乾いた音を残した。色白の児童は、水に落ちた尨犬のように長い髪を振り乱し、耳のなかを指先で掻くような仕草、グレーのパーカーの襟から砂を掻き出すような仕草と忙しない。幼い思索にも、事態が一線を超えたことを悟ったかの少年は既に砂山を叩く動作を止め、いまにも零れ落ちそうな涙を溜める眼差しで、衣服に空気を孕み、下着の下から砂を落とそうと跳ねる児童を見上げている。彼は思いの外幼い。色素の薄い肌や髪、そしてその眼差し。体格は細いが、幼児のようなふくよかさを残している。彼は怖々と立ち上がる。色褪せた水色のTシャツの胸には、アニメーションキャラクターがプリントされていて、それは素人眼にも著作権を恐れながら模倣された滑稽さを気付かせ、そうやって嫌な印象のまま半ば剥げ落ちている。キャラクターは大きな口を開き笑っている。少年の頬に涙が線を引く。色白の児童が最後に前髪を掻き上げると、少年へ踏み込み、その脇腹へ向けランニングシューズの蛍光色で弧を描いた。少年は短く声を詰まらす。脇腹を庇うように身を折り曲げ、必死に見開く両眼で、呪うような、願うような眼差しを続けている。再び髪を掻き上げる色白の児童は、上気し奮えるその仕草で、パーカーの襟を頻りと気にしながら少年に近付く。少年は身体を折り曲げ、自らの肘を抱き抱えるような姿勢のまま息を喘ぎ、同じ速度で後退している。威圧的にしかし緩慢な動作で距離を詰める児童の背後には、何時の間にか、トラックスーツを着たリーダー格の児童の姿が在る。


  辺りが灰色になる。かつて鯨の死骸が見上げていた流氷の雲もいまは砕け、上空で大陸のように広がっている。陽射しは届いていない。手前を流れる雲の向こうで、輪郭の明暗を繰り返している。気温は些か低下し、陽射しの喪失を理解しない肌の表層だけが、どこか咽喉の渇きに似た悪寒のようなものを感じ続けている。街の背景音に併せ、それとはなしに聞こえていた工場のコンプレッサーまでが黙り込み、偶然が重なり生まれる静寂のようなものが漂った。
  砂場では丁度いま、その縁を乗り越え踏み込んだ色白の児童の肩を、ネービーブルーのトッラクスーツを着た児童が掴んでいる。そこへ向け、どこか重心の執れていない可笑しな歩き方をする背の高い面長の児童が、追いつこうとしている。振り返る色白の児童は、いまも上気する眼差しのままリーダー格の児童を見上げその言葉を待つ。互いに、やや斜めになる視線を合わせると、束の間の後、リーダー格の児童が笑顔にし宥めるような声で尋ねる。結局、あいつの弟なのか。色白の児童は一度素早く少年へ振り返ると直ぐ様向き直る。こいつ、応えねーよ。面長の児童は少し離れたそこから二人の様子を窺い、意見するでもなく、何をするべきかとその手持ち無沙汰で、ここでもやはり肘の辺りを掻き始める。彼の手足は異様に長い。色白の児童が、突然その長髪を振り乱すようにして少年に向き直る。その背後、取り残されたリーダー格の児童が、失望の面持ちを垣間見せる。女性的にも見える眼差しを不敵に歪め、色白の児童は少年に歩み寄る。少年の肩を、その体勢が傾ぐほどの強さで押し遣り続ける。どうなんだよ。再び、脇腹を蹴り上げようかの素振りをする。応えろよ、訊いてんだろう。リーダー格の児童が、そのトラックスーツと揃いのスポーツメーカーのラインが入るバスケットシューズの爪先から視線を上げる。もう、行こうぜ。頭を振り顔を顰め舌打ちする。おい、もう、いいだろう。呼び掛けられた色白の児童は、少年を威嚇する動作のまま、そこでリーダー格の児童へと振り返った。同時に、涙を溜め畏縮しながら後退する少年が、背後になる砂場の縁に踵を打ち付け、血色と共に座標を失いながらその息を詰まらす。振り向いたままそこへと向かう色白の児童は、少年に躓き、絡まり、揉み合いながら砂場の外へと投げ出されてゆく。見上げる恐れの形相と、向き直り見下ろす驚きの形相とが、空中で見詰め合う。
  事態は彼らのなかで治まる筈が無い。砂漏はその清潔な砂の質量を重ね、この胸を詰まらせようとしている。試されているのだ。この、蜂鳥の溺死体が、遠い日、いまは失った何かを胸にするあの日の約束を守るであろうかと、試されている。感極まり、呼吸を詰まらせているだけでは、居ないも同じだ。そう、まるで意味の無い、溺死体に過ぎない。
  何故これまで気付かなかったのだろうか。大気が静かに震え出し、その膨張が、辺りの全てを埋め尽くそうとしている。空は世界を混沌に返し、虚心の骸を、海底に追い遣る手筈を整えつつ在る。
  色白の児童が、少年の上に倒れ掛かる。絡まりながらも体勢を整えようと、両の手で宙を掻き毟る。瞳が大きく見開かれ、魅力を持つほどに女性的な一齣になった。
  堕落の一段階が、耳もとで囁く。溺死体?望むところではないか。
  その、意識を捕らわれた眼球のなか、色白の児童と少年が、砂場の外に投げ出される。後ろ向きに倒れる少年が、後頭部を乾き地盤のようになる敷地の土に打ち付けた。顰める瞼に締め出され、涙が耳へと線を引く。
  堕落の声が願望を囁く。海底の居心地こそお前の望む全てであろう。いま、目前の些事に眼を瞑れば、それは手の届く世界として、お前を包み込むのでないか?
  覆い掛かるように地に向かう色白の児童が、その長髪を背後に靡かせ、額を見せながら、少年に全体重を打ち付けようとしている。しかしその、二人が絡まる姿勢には、一つの予感が在る。
  秩序は混沌を待ち侘びている。目前でいま、それが振舞われようとしている。しかしそれですら、やがては一様に、海底の速度が包んでくれるであろう。まるでこれ自体、戯曲を読み進む感応のように。関わりをもたなくば罪は科されない。
  仰向きに倒れたままの少年が立てる一方の膝、膝頭に、宙を掻きながら覆い掛かる児童の鳩尾が重なる。彼は捩れた体勢のまま手を突きそれを庇おうとするが、腹部に掛かる加重は差し引きできない。彼は空中で折れ曲がり、身を逸らし、そのまま地面に打ち付けられると背を丸め、のたうち回り、咽喉の奥から体液を吐く。跳ね起き、腹部を懸命に抱き抱え、しかし膝を折る。復讐の形相で少年に挑み掛かるが、瞬時に崩れ、耳朶、頬を敷地の砂に擦るように身を捩じらせ、粘液質の唾を垂らしもがき苦しむ。
  空では恐ろしく巨大な要因が、とある臨界を超えようとしている。
  少年が肘を突き上体を起こし、自身、苦痛に歪む眼差しで、のたうつ長髪の児童を見詰めている。内耳に染み込むその涙は、熱く鼓膜に溶け込むであろう。予感は、その直後に再生され、更なる混沌を予感させる。
  大陸のようで在った雲を逃れたのか、大地が陽射しに焼かれ始める。
ネービーブルーのトラックスーツが鮮やかに発色してゆくリーダー格の児童が、甲虫の幼体のように身をくねらす児童に駆けつけしゃがみ込む。
  大地の照度はピークに達し、これら事態の一齣を結実し印象づける。しかし事態は次の様相に向け連鎖を始める。
  髪を振り乱し苦痛の形相のまま起き上がる児童が、リーダー格の児童を押し遣ると少年に襲い掛かる。彼は腹部を抱えたまま、少年が居るで在ろう周囲に向け、蹴り上げる脚を止まない。それは時折少年の身体を捉え、辺りに鈍い音を広げている。
  空が方向を持つ。混沌が収束し芯を固めようとしている。
  直ぐに追い縋るリーダー格の児童が、闇雲に暴れ続ける色白の児童を背後から抱き締め身動きを止めようとする。復讐の一色に彩られる長髪の児童が、僅かに勢いを失う。
  打たれるままで在った少年が、痛みを堪え続けることの恐怖に震え、起き上がる。あらゆる液体で濡れるその形相を顰めたまま、彼は必死に色白の児童に掴み掛かり、その華奢な顎で歯を剥く。そして噛み付いた。
  空が臨界を超えて落ちて来た。機影が右から左へ、少年、色白の児童、トラックスーツの児童へと撫ぜる。大地が平面的にそれを受け入れ、即座に基の照度になる。事態に取り残された面長の児童が、不安な眼差しのまま機影に黒ずむ。轟音が空を塗り潰し、主観の思考を、真っ白な空白で包囲する。そこには砂の音が在る。軽やかな粒子の摩擦が、男の声と擦れ違う。お前は溺死体として、そこで全てを腐乱させてゆくつもりか?夢で聞く自らの声に似ていた。更なる声に交差し深層に沈む。辺りには潮騒、海猫の声が揺らぐべたついた風。良く遣ったな、男の子はそうでなくてはな。優しく、包み込むような声だった。彼は陽射しを背にしていて、その面持ちは翳になっている。空はその背後に遠く、とても光に溢れていて、彼の逞しい肩の高さには、未知の世界が広がっているのだ。彼の優しさが全てを期待させるそこは、自由に溢れ、痛みや苦しみを逃れられる方法が、幾らでも存在する世界。だからあんなにも優しく微笑むことができるのだろう。彼は、透き通るような笑顔で、微笑んでいる。しかし見下ろす面持ちは翳。首を傾ぐと、輪郭から溢れる白が、液体を鋭利な放射線に広げ全てになった。轟音が最知され鼓膜に突き刺さる。機影が走る。全てが瞬時に過ぎ去ってゆく。基の照度、この公園の陽射しのなか、少年が闇雲に噛んだのは、色白の児童を背後から抱き抱え抑えようという、その腕だった。


  空に走った混沌の芯は、他国に向けてか、長波に偏り過ぎ去りし暴徒の行方へをと印象を終え、余韻の高度を上げてゆく。事物の速度が、それに象徴されるかの如く取り戻され、潮風の喪失が、感受体を硬質なしこりに変える。
  咄嗟に腕を引いたトラックスーツの児童から逃れ、長髪の児童が、拳で少年の側頭部を殴る。少年の細い首が即座に傾げ、その方向に向け、身体が崩れる。
  お前はそれでも動かぬのか?砂漏が、否、自らの声が脳裏で暴れる。
  両腕で必死に頭を庇い、丸くなりつつも後退る少年に向け、ランニングシューズの蛍光色が繰り返し線を引いている。少年が、肺に押し出されるままの呼気で声帯を震わし、短く、震わせ続けている。
  お前、意味の無い焦心であるならば消えてしまえ。
  長髪の児童が、女のように咽び泣きながら錯乱し少年を蹴る。少年のTシャツを掴み、引き起こそうとしている。色褪せたTシャツが胸元で破け、笑い続けるキャラクターの頭部が裂けた。粉が浮くように見えるほど白い少年の肌が、大気に晒される。少年は顔を引き攣らせ、その眼差しで降伏し謝罪している。善も悪も無く、肉体を壊されてゆく恐怖を終える為だけに、平伏そうとしている。彼の胸元では、頭部の裂けたキャラクターが笑い声を終えない。それは考えもなく模倣され、買い求められ、その滑稽さを嫌がるでもない少年の胸で笑い続けているのだ。安易な発想で利潤を求めた中小企業に製造され、価格に惹かれ知識もなく手に取った少年の保護者に買い求められ、やがて彼を包むと、これまでその滑稽さを多くの人目に晒らし続け、この公園で顔面を真二つに裂かれながらも、今尚、笑い声を止まない。彼はいったい、何を笑っているのだろう。全てを気づき理解しながらも、成り行きに任せ静観し続ける、この蜂鳥の溺死体、そのものではないか。これまで耳もとで繰り返された、あの声が問い掛ける。お前はいま、何の為に実在しているんだ?聞き覚えのある声の主が、いま漸くと理解できる。お前は何故、この場所に立ち会っているんだ?清潔に乾燥した細粒の砂が、細く触れ合う、その質感。ベンチの背凭れに弾かれる身体。血液が宙に舞った。
  礫だった。色白の児童が咄嗟に手の甲で額を撫ぜると、彼の目前でそれは鮮血に染まっている。即座にそれは額を流れ、眉で幾筋かに分かれ、頬に、顎尖へと伝う。長髪は血液に束なり、そうやって露出する彼の額は、横一線、見事な傷口が開いている。女性的にも見える彼の顔貌は、ふざけて大量のインクを被ったかの様相を呈す。赤インクは、眉の隆起で雫を作り、次々と零れ落ち、軒垂れのように土に染み込み斑点を布置する。
  完全に動作を失った鮮血の児童に向け、何かが走り寄る。それはその速度を維持したまま、一度体勢を低くし拳を固めると、児童の頬骨を的確に捉え、弾き飛ばした。骨と骨とが打ち付け合う、密度を持った音が残される。長髪の児童は、血液の雫と唾液の糸とをその空間に残し、背後へ向け、質量を失いながら崩れ落ちる。
  噛まれた傷口を押さえたまま膠着していたトラックスーツの児童が、呆気に取られ開いた口を結び、その何者かに殴り掛かる。長髪の児童を弾き飛ばした何者かは、既にそれへ向け対峙していて、両者は互いの身体に向け致命打にならない幾つかの拳を打ち付け合った。手足の長く背の高い児童が、その面長な輪郭のなかで眼を丸めたまま、身体を前後に揺らしている。彼は殴りあう両者に近付こうとし、一度逡巡するが、遂にその何者かに向け掴み掛かった。


  思考が事態に追い付く。いま、背後から腕を掴まれもがき続ける何者かが、この溺死体などではないことを、漸く理解する。それは浅黒く、額や頬に幾筋もの掻き傷を持つ躍動の肉体。彼は散切りにした髪を振り乱しリーダー格の児童へ挑みかかる。その、引き戻されながら歪む形相には、砂場の少年に似た面影が見られる。しかし色褪せ綻びた無地のTシャツ、同じく色褪せるジーンズとスニーカー、それらの基調は、尚更に浅黒い彼の肌を強調させている。彼の瞬発力、眼差しには、目的に対する単一色の衝動が見て取れる。それは同時に、冷静な思考の管理下に在るように思える。彼は正面の児童に向け伸ばした腕を弧にしながら引き戻し、背後からしがみつく二本の腕を潜るように体勢を低め、返るその肘で面長の児童の顎尖を捉えた。躍動の肉体は目的に向け、その制約を逃れる。
  敷地の横手で、尖鋭な摩擦音が軋んだ。それは自転車のブレーキ音。投げ捨てられるその二台は、乗り手を失いそれぞれが少し走りながら傾ぎ倒れる。駆け付ける彼らの上背は高く、両者共に巨躯で在り、特に先を走る児童の筋骨の成熟する肢体、私服に似合わぬ丸刈りの頭などが、恐らくは格技部の児童ではないかとの予感さえ持たせる。彼らは、中学生ではないか。
  浅黒い躍動の肉体が、トラックスーツの児童に向け歩調を合わせる。同時に迎え撃つ児童の拳が、浅黒い肌と擦れ違い、それぞれの二の腕や肘の打ちつけ合う霞んだ音が繰り返される。一度離れ、再び組み合おうと前のめる躍動の肉体の腕を、背後に駆け付けた中学児童がしかと掴んだ。詰まる呼吸に肩をひくつかせながら、手の甲から肘までをふんだんに使い、顔中の液体を拭っている砂場の少年、その形相が事態に向け、戦慄を固体化させる。見あげるそこには、体格の違い、その落差が、平然とそこにある。
  やや遅れて駆け付けた二人目の中学児童が、砂場の縁に横たわり身をくねらす血まみれの児童へと寄り添う。短く刈られたその髪は、陽光の下で頭皮を透かせ、その白い肌と女性的な眼差しは、血まみれる以前の児童を思わせる。彼は瞬時に血相を変え、斑点が浮くように見えるほど赤らむ形相を引き攣らせ、何か聞き取れぬ叫びを上げながら立ち上がり、躍動の肉体へ挑みかかる。
  強靭な力に腕を取られた躍動の肉体は、そのまま背後に引かれ、身を捩じらせながら後ろ向く。取り残され、事態が把握できないでいるトラックスーツの児童は、打ち付けようと構えた腕の先で拳を軟化させてゆく。その手前、丸刈りの巨躯に対峙する躍動の肉体は、表情の変わらぬ冷めた眼差しで束の間の逡巡も見せず、いまは尚更にしなやかに見えるその肉体を瞬時に動作させ、肩から二の腕に走る流線型の筋を液体のように連鎖させ、目前の巨躯に向け拳を叩き込んだ。骨と骨のぶつかり合う密度のある音が、一際響き渡る。浅黒い躍動の肉体が、のけぞりながら宙に浮いた。

  躍動する我が分身は、大地に鞭打ち、動作を終えた。

  この小さな全世界に、明らかに一つの要素が足りない。

  訳の解らぬ叫び声を上げ、二人目の中学児童が走り寄る。大地に叩き付けられた躍動の肉体に馬乗りになると、一心不乱に拳を交差させる。

  さあ。

  浅黒い躍動の肉体は、中学児童の巨躯の下で、細く危うく頼りない。先まで全身に纏っていた可能性の印象を、完全に剥ぎ取られてしまった。それは動作することに拠り初めて完成する肉体だった。両腕で頭を抱えているが、殴打の全ては防ぎきれず、鈍い拳の音は止まない。砂場の少年が立ち上がり、顔一面を皺にし、それを止めようと背後から締める。しかし一向に動作は止まず、少年は、背後から近付く、兄を打ちのめしたその巨躯に難無く剥がされてしまう。彼は大人のような肉体にしかと押さえられ、涙のなかで懸命に兄を見詰めている。圧倒的な力で押し進められる、事態の完全な閉鎖感。

  男の子は、そうでなくてはな。

  優しく、包み込むような声だった。

  重力と音景の遮断。

  距離は理解できず存在せず、

  次には既に、

  その最中に在る。


  馬乗りになる中学児童の肩を掴むと、彼は身を捩りながらこちら向いた。目前で、上気し赤らむその面持ちが、困惑に染まっている。その向こう、躍動の肉体は、顔を血液と唾液にぬめらせながらぐったりとしている。その緩慢な画像のなか、拳を揮うと、色白の中学児童が弾け飛んだ。中指の付け根が対象の芯を捉える懐かしい感覚を知り、相手に追い討ちがいらないことを理解できる。振り返り見据えると、強靭な体躯の児童が、形相を歪め立ち竦んでいる。呆気に取られたかの様子で脱力した腕を、少年が逃れ、兄へと向かった。目前には未だ、取り残された中学児童が畏縮している。さあ、再び拳を揮い、まだ幼い彼に致命打を与えよう。全世界が注目するなか、お前は、子供を殴り飛ばすのだ。さあ、心に衝き動かされるままに動作しろ。直ぐに組み上がる理論の羅列が、お前という存在を包囲し、数々の要因を塗り付け、瞬間ごとに硬質化してゆくその壁で土偶のように包み込む前に。この瞬間が生死を分かつ基点なのだ。さあ。
  貧血のように世界が薄まると、耳鳴りのように鋭利な陽射しが後退し、擦り硝子の視界から街並みが再生されてゆく。遠くで車のクラクションが鳴り、工場のコンプレッサーが高鳴ると、身体の感触が戻り始める。陽射しを呆然と見上げ、両手を広げ、その肌触りを確かめている。主観はそれだけを確かめながら、真っ白のなか、何も思っていない。

  なにか一縷の雰囲気を、そこで、
  手にしようとしている。
  まるで、
  忘れてしまった言葉のようだ。





  狂人を見る眼差しだった。彼らはそれぞれ、肩を支え合い、又、自らの痛みを庇いつつ公園を後にしていった。うわ言のように声を上げる、額が割れ血まみれの児童は、トラックスーツの児童と面長の児童に支えられ、脚を引き摺りながらこの聖域を後にした。見栄えのした彼らの衣服は、鮮血に黒ずんでいた。
  最後に対峙した中学児童は、脱力し捕らえていた少年を放すと、その時点で背をみせ、全ての出来事を置き去りに逃げ去った。ジャングルジムの横棒に腰掛け、携帯ゲーム機を覗き込んでいた児童が、現実に戻り見回す凄惨な事態に驚愕すると、仲間に置き去りにされてはと走り出し、最後に振り返りみせるその形相で、この狂人に対する圧倒的な恐怖を教えてくれた。そうやって見られるのは、暫く振りのことだった。
  公園はいま、再び静まり返っている。砂場の少年が、横たわる浅黒い兄の傍らですすり泣く声が続いている。少年の兄は、その無表情な眼差しを、位置的に見下ろすようになる眼球の動きにし弟を見遣った。彼は微かに微笑んだかもしれなかった。弟を安心させようというのか、動作の一つ一つに顔を顰めつつ上体を起こすと、そこで血まみれる口や鼻の下を拭い、身を震わせつつ立ち上がり、少年の肩にゆっくりと手の平を置いた。彼は向き直りこちらを見上げる。表情の無い決然とした眼差しで見上げている。視線が、互いに焦点を合わせたまま、それなのに擦れ違うようで、はたして向き合うこの両者の内、どちらが自身であるかというような錯覚に捕らわれる。彼には明確な理由が在る。世界に飼い馴らされるのではなく、次々とこの空間に行動を起こし、自身の存在を提議してゆくのだ。そのさなかにいるときはそれを思わず、思ういまはやはり、こちらからそれを見下ろしている。いま、再びそれを手にできる。浅黒い、古い掻き傷に新しい傷を重ねる決然の眼差しが、掛かる言葉を待っている。

「良く遣ったな」

  彼は表情を変えない。しかしそれでも、彼の記憶に言葉は刻まれてゆく。約束は義務ではなく、そうやって、次の今日へと因子を運ぶ。
  いまは兄の浅黒い肌の向こうに隠れるような、色白の少年へ向け視線を逸らすと、錯覚はその印象をゆっくりと解決してゆく。眼下に在る少年は、絶対的信頼で兄の背後に隠れ、絶えずその賛美者で在る自身に同意した目の前の男を見上げながら、繰り返し洟を啜り、、屈託の無い笑顔をみせている。粉の浮くように白い肌は、顔中を覆っていた液体の軌跡が乾ききらず、皮膚はその張りに引き攣り、額には既に赤らむ瘤が隆起している。色褪せた水色のTシャツに描かれるキャラクターは、頭部に亀裂を残したまま笑い続けていて、少年も又、無防備な笑み。少年の兄が、彼を向き直らせるように肩を抱いた。スラックスのなかで揺れている硬貨が意識に上る。それは公園に立ち入る前に、鉱水を買い求めた釣り銭だった。

  兄ちゃん、山田商店で、あのアイス買おうよ。
  躍動の肉体が、いまは柔らかく動作し、手を取る弟に引き摺られてゆく。

  公園を一歩踏み出すと、その外にも世界があった。雑然に満たされる街並みは、大気の底辺で澄み渡る青の光彩を受け入れている。街路樹に沿い歩き続けると、しんみりとした木々の呼気を呼吸できるようで、足並みが軽くなる。敷地の角から現れ、走り寄り、擦れ違い様に肩をぶつけた青年は、先週から会うことの出来ずにいた最愛の女性に急ぐのだし、横断歩道に差し掛かり、信号機のボタンを押した中背の婦人は、家で待つ子供へと買い求めたささやかな土産を、自身の喜びにし微笑んでいる。路地の横手を見遣れば、既に意味を無くした社用車が、煤けた白い塗料の下で錆を広げてゆくのが解る。耳朶の産毛がこそばゆくなり空を見上げると、ジェット機の機影が辺りを過ぎた。大きな白い機体の一部が、アパートメントの洋瓦の向こうへ瞬時に消え、騒音を響かせる。初めての海外に向かう機上の女性は、夢に見た憧れの地を思い浮かべ、この国を後にするのだ。砂漏は、その粒子を、囁き続けている。




  囁き続けてゆく。



  <了>



  2001/10/25 sai sakaki


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