五月の野営
    著・榊蔡‐sai sakaki



  ケイタが水面を眺めていると、すれすれを舐める一帯の風がおしよせて、黄土の土手を駆け上がり、かれの前腕を撫ぜて後ろへいった。水面は風との接触部だけが光沢を失った。そのままの速度でかれの前腕に鳥肌がはしったものだから、ケイタはデニムの腰を払いながら立ち上がり、風がこの水面と自分とを分け隔てなく撫ぜていったのだな、というようなことを、およそこのような言葉にせず感じていた。自然のなかで耳を澄ましていると、自分をすっかり消し去ってしまえる、そんな瞬間があるのだった。それこそが本当の生であると、思えることもあるのだった。  
  人工湖の水面は、それからしばらく黙り込んだ。どこかの斜面を転げ落ちる落石の音、そしてそれが水面を割る音が順に聞こえ、山間を縫う車道を走るバイカーたちの変速するエンジン音が近づいて、似たようにまた遠退いていった。ケイタはかれ身の丈ほどしかないしかし柔軟なロットを地面に立て、ラインの先に結んであるクリップからシンキングミノーを取り外すと、かわりに黄金色のバイブレーションを取り付けた。  
  水面にはいま、対岸の、こちらより高い土手に立つ、手の平のような柿の木がおとす、はっきりとした影があるのだった。土色に濁った水に屈折しながら、その光と影の境界が、水中に断面を描いていた。ケイタはバス用のルアーのなかでは比較的重量のあるバイブレーションをそっとキャスティングし、緩慢な強弱をつけながらリールを巻き、光の断面を撫ぜるようにして、そこへとルアーを近づける。ロットの尖端が細やかに震えている。水の抵抗で左右に首を振るバイブレーションの振動が、指先に伝わってくる。この時刻、とくに今日は昨日よりも水温も低く、バスたちの活性は下がっている。だからその鼻先にルアーの煌めきを横切らせ、食い気よりも反射的な本能で食いつかせようというのがそう、かれの狙いであったわけだ。
  ルアーは浅瀬に近づくと、沈み込もうとするバイブレーションルアーの動きにより、湖底を掻いて濁らせる、道筋を残して帰ってきた。ふたたび投げ込もうとルアーを後ろにまわすケイタだが、力無く動作を終え、ロットを足許に横たえると、デニムの後ろから取りだしたフラスコのキャップを、二本の指でスピンさせた。ひとくちだけ含み、もとの動作でデニムにもどす。頬の内側に生ぬるいウイスキーの刺激が充分に染みてから飲みくだすと、喉をその熱がくだってゆき、香りが鼻腔へとのぼってきた。ケイタは尖った山頂の上空で円を描くトビをそこで見あげたのだった。ロットを拾いあげ風を聴くと歩きだし、雑木が遮蔽する岬のむこうへと向かっていった。
  水没した枯れ木を横目にしながら岬をまわると、黄土の浜はそこでいちど途切れてしまい、そこからは釣り人たちが踏み固めただけの湿った小道を、林間を分け入って進んでゆく。木々のざわめきが周囲に満ちた。細やかに散らかった木漏れ日はまるで、瞼のすぐ上で点滅を繰り返しているようだった。木々が分かれ、視界が全面に広がると、ゆるやかに弧を描く浜にそって、水草の群生する広々とした浅瀬(シャロー)がそこにはある。
  その表情までは見てとれぬ距離に、ふたつの人影があるのだった。膝まで水につかりロットを緩慢に上下させている方の人影がこちらに気付くと、そこでもうひとつの人影へと振り返り、かれらはふたりが見合わせる一拍のあとに、同時にこちらへと手を挙げてきた。ケイタもふたりに手を挙げて返した。遠くてもふたりのそれとした仕草が解るので、自分の耳にだけ残るような、吐息のような笑い声を、残してふたたび歩きだした。
  浅瀬はむこうへ向け黄土の浜だけが突き出した岬の形状で終わっている。弧の内側は浅いのだが、外側は大きく落ちこんでいて、土色に濁った水によりその水底もさだかではない。浅瀬なら水中の様子がうかがえる。稲のように葉の細い水草が群生する纏まりの影には、手の平ほどの小さなバスが、じっとしているのが見てとれる。ふたりは浅瀬の奥へむけて、ワームというシリコン状の柔らかいルアーを投げている。頭の部分にはシンカーというウエイトがあり、その重量をしゃくるようにロットを振りながらラインを巻くと、運が良ければそれだけでバスが食らいついてくるというものだった。ケイタが足音を殺しながらふたりへ近づくと。不意に振り返ったボーヤンがそこで大声をあげた。
  「おーい。そっちはどうだった?」
  かれには今朝方、確かに説明しておいたはずだった、ポイントに近づくには充分に気配を殺すことに気をくばるべきであるのだと。バスはこの十年、いや、二十年のあいだにすっかり慎重な魚になっていた。ケイタが子供の時分には、水面で動くものすべてに、その大きなくちを使ってきたというのに。
  「まったくダメだよ。昨日より悪い。夕方に少し魚が動くかもしれないけど、こんな日はあまり良かったためしがないし、今日はもうやる気がないよ。」
  「こっちはオレが二匹でユミが  
  言いかけたかれの後ろから、髪をひとつに束ね、キャップを目深に被るその女が割って入る。
  「ねえねぇケイタくんあたしも釣ったよ。グイグイ引くから逃げられるかと思ったけど、あたしも負けずにグイグイやったら釣れました。」
  ケイタはそれに、話の続きを促すような笑みと目配せをくれた。
  「すごく大きく見えたんだけど、釣り上げたら20pくらいだった。」  
  すぐに横向いてボーヤンが割って入る。
  「そんなになかっただろ。オレが今朝釣ったのが20pだぞ。」
  「じゃー18pくらいかな。」
  「写真は撮ったの?」
  「うん。」というと、ふたりはお互いを見合わせた。ケイタは二人の表情から、この二人だけがユーモアを感じられるようなちょっとしたエピソードが、その撮影にはあったのだなとゆうようなことを見て取った。
  「18pでも、はじめてで釣れたなら凄いよ。オレなんか昨日も今日もまるでダメだ。」
  「大物ねらってるんでしょ?」
  「違うよな?なんかケイタはこだわってんだよ。おまえはいつもそうだ、そういうとこがある。」  
  ケイタはそれには答えずに、岬が黄土だけになる少し手前の灌木の日陰に腰を下ろし、ベルトにとめた小さなルアーボックスや手ぬぐいのタオル、そしてデニムの後ろからウイスキーのフラスコを摘むとその傍らにならべていった。ロットは躰をはさんでその反対に置いた。ポケットから取りだしたハンティングナイフの刃を起こすと、チーズ入りのサラミへ、輪切りの方向でそれを埋めてゆき、刃の背を囓るようにしてそれを食べた。フラスコのキャップをスピンさせてひとくち含む。見ていたボーヤンが手にするタックルをよこたえると、木陰にかれが隠しおいてあったのだろう、使い捨てのクーラーボックスから、ビールの缶を取りだした。かれは一息で缶の半分ほどまで飲み干した。ケイタの横に腰を下ろすと、その人好きする小さな顔で、とても親しみのこもる笑みをよこす。
  「オレにもくれ。まだある?」
  「あるよ。シックスパックをバカみたいにどデカい氷で冷やしてきたから、南極みたいにキンキンになってるよ。」
  ボーヤンはいいながらゆき、もどってくるとビール缶をさしだした。かれが言うようにそれは良く冷えていて、ケイタはその冷たさを甘受する手の平の手の甲をクーラーボックスの方へむけた。
  「テントに帰ったらちゃんと返すよ。」
  「いいよ。ユミはこんや妹と飲みにいくからって飲んでないし、オレもあんまりやると昨日夜勤だから眠っちゃいそうだよ。」
  「今週はずっと夜勤だっていってたっけ?」  
  言いながらアルミ缶のタブを起こすケイタだった。枝葉の触れ鳴りやいま遠くで鳴いたトビ、またそれより近い半径にある自らの発声の余韻、そしてそれよも直ぐ近くで、アルミの押しちぎられる音、追って、気密が解かれて炭酸の泡立つ良い音が聞こえた。
  「水曜から三日間。二日休んで、月曜からは日勤だよ。」
  「同じ時間でも夜だと長く感じるよな。」
  「たしかにね。でも最近はそうでもないんだよ。オーダーの先が見えてるらしくて、ライン止めて卓球やってる日とかもあるし。夜はネクタイ組みが居ないから、ノルマこなせてるときはけっこう自由にしてるよ。会社でも暗黙の了解みたいになってる。」  
  ケイタはそれを聞きながら、大きく傾けたアルミ缶から落ちてくるものを嚥下していた。喉を鳴らすたびに落ちてゆく液体を、躰はそのままの速度で吸収してしまうようだった。かれは湖畔を彷徨わせていたこの躰が、思いのほか水分を求めていたことをそこで知った。
  「おまえ卓球なんてしたっけ?」
  「あの会社に入ってからね。娯楽室みたいのがあって、卓球台があるんだよ。みんな素人みたいなもんだし、遊びだよアソビ。缶コーヒー賭けたりするときもあるけど。」
  「すごいヘタなんですけど。」  
  細い岬から浜の曲線を木陰に入りながら近づいてくるユミが、笑いを堪えるような言い方でいうのだった。かのじょはテクノアートをプリントしたイエローの鮮やかなティーシャツを着ていた。そこから生えている二の腕や首筋はとても白く、それだからシャツの鮮やかな発色はなおのこと際立っていた。ケイタはそれを良い黄色だと思うのだった。
  「こいつ卓球部だったんだよ、中学で。」
  「ビールもらうね。」
  「おまえ飲まないって言ってたじゃん。」
  「ノド渇いちゃった。」
  「水だって残ってるじゃん。」
  「いいのいいの。」
  通り過ぎたユミはクーラーボックスのある茂みへと覗き込んだ。アルミ缶のタブを起こし炭酸の音を覗き込むと、二回だけ喉を鳴らし、木陰の容積を水平方向へぐるりと見まわすような仕草をそこで、みせるのだった。キャップのアジャストから一つにしていた髪を抜くとタオル地のハンカチで首筋と額の汗を拭うのだった。こうしていま上昇した五月の瞬間的な気温に対し、それは良く用意されたものだった。
  「そうだ訊くの忘れるとこだった。」余韻を埋めるようにボーヤンがいった。「おとといコンビニでエミちゃんに会ったんだよ。週末にケイタんとこ顔だすつもりだっていったら言づて頼まれてね、なんか欲しいものあるか訊いといてくれって。それを帰ったらオレが電話することになってる。そんとき番号も聞いた。」
  「ここに来るって?」
  「そうじゃないのか?なんかエミちゃんって説明しないでそういうこと訊いてくるとこあるだろ、こっちは想像して、ああいいよって応えといたんだけど、そうじゃなきゃふつう訊かないだろ。」  
  ケイタは直ぐに答えることができなかった。いまやその思考は、躰が急速に吸収したアルコールによる弛緩の段階の狭間にあり、あの女がここに来るということを正確に理解できずにいるのだ。いや、それはそうではなかった。かれにはかのじょエミがどういった出で立ちでこのキャンプを訪れるかを正確に予見することもできた。赤革のトレッキングブーツと墨色のカーゴパンツ。そしてあのテンガロン。銀糸の刺繍やラインストーンを散りばめたダンガリーのベストを羽織るだろう。その下であの胸を際立たせる、ダウンサイズのティーシャツ。けれど全てを否定してこういうことも有り得るのだった。かのじょはまだかれの知らない、新しく買った野外むけのカジュアルを見せに来る。それはこれまでそうだったように魅力的なものなのだろう。そしてそう、堕落の象徴としての印象を、より一層、深めてくれることだろう。
  「欲しいものなんてないな。キャンプはいろいろ計画して用意するところから楽しみなんだから。」
  「そう言わずにさ、なんかちょっとしたもの頼んでやるくらいの方が喜ぶんじゃないのか。エミちゃんお前のキャンプのこといつもこう言ってるぞ、ケイタが圏外に逃げた、って。」  
  ケイタはサンダルのストラップからむこうにとびだした自分の足の指を見ていた。がそこで顔を上げ、対岸から湖面に覆い掛かる木々のむこうへ、所々に岩肌を露出した威嚇する猫の背のような形をした山塊を見あげるのだった。かれらの街はその方向にあるのだった。ケイタはたちはだかるあの猫の背のような山塊が、街からこちらへとむかってくる電波の悉くを跳ね返している様子を思い描いているのだった。電波はアメリカの古いアニメで見られるような、重なった黄色い弧として思い描かれた。エミが携帯電話の端末を構えるたびに、こちらへと増えてくる黄色の弧はあの山塊で見事なまでに跳ね返り、おなじくアメリカアニメのようなネイビーブルーの宇宙のなかを突き進み、しまいには番号しかふられていないような小惑星や未確認飛行物体のボディーに跳ね返ったりしてしまうのだった。これでは連絡のとりようがない。
  「なにニヤニヤしてるんだよ。」  
  かれから上半身を逃がすようにして、ボーヤンは訝るような表情をそこでつくってみせた。ユミがそのむこうで水鳥を思わせる格好でしゃがんでいた。かのじょは膝の上に両肘を乗せていて、前にだした手でビールのアルミ缶を大切なものを持つみたいに持っている。ボーヤンがふりかえり、どう思うこいつ、と訊くと。目尻で笑う笑い方で目笑をよこした。
  「それじゃコレでいいや、ビールでも頼んでおくかな。持てるだけ、っていっておいてよ。重いとかなんとかいいそうなのわかってるし。」
  「ビールね。持てるだけ。」
  「ホントはあの橋のとこの店でも買えるんだけどね。」
  「だからそう言うなって。」かれは残りのビールを飲み干すと、アルミ缶をくの字にした。「それともう一つあった。エミちゃんオーディション、第三選考通過したって言ってたよ。オレがコンビニで会ったのは当日の帰りだったんだよ。おまえコレまだ聞いてなかっただろ。」  
  ケイタはそれにただ一言、ああ、と答えると、すぐに煽ったアルミ缶に親指の腹を沈めてゆき力なくくの字にしたのだった。かれにはエミというあの女の行動にかつてよりどうしても馴染めないところがあったのだが、オーディションの件はそのうちの一つだと言ってもよさそうだった。かれはゆっくりと不自然なものになってゆく沈黙を埋めようと、湖面を眺める横顔で鼻を鳴らすように短く笑い、言葉をつけ加えてゆくのだった。
  「でもその次は確か技能選考だろ?あいつ楽器も知らないし演劇やダンスも何もできないで、会場でなにするつもりなんだろうかな。」
  「なんか考えてあるんじゃない?このあいだあの店でやってた、泣いたり笑ったりしながらゴハンを食べる子供の真似、あれなんかおもしろいじゃん。」
  「身内だからウケるんだよ。」
  「まあ、相手を選ぶよな、あれは。」
  その顔を斜にむけるボーヤンの向こうでは、水鳥を思わせる格好でしゃがんだままのユミがこちらを見ていた。二人が話しているあいだ、かのじょは話している方へと順に眼差しをむけていた。瞳孔を遠近に絞るのが見て取れるような眼差しの振り方だった。話題の人物が知人でない場合に、会話からの想像で人物を思い浮かべる人がよくするようなそれは眼差しだった。
  「ユミちゃんその黄色すごくイイね。」それまでもケイタを眺めていたかのじょは、想像の空間から網膜のすぐ裏に戻ってくるような見かたでケイタを見た。ケイタはつづける。オレも黄色の洒落たプリントが欲しくて、バイパスのとこの古着屋で二三着買ったんだけど、どれ着てもプールの監視員にしか見えないんだよ。するとかのじょが鼻の周辺から笑みになりそうなところで、ボーヤンが割り込む。
  「お前いまからもう真っ黒だもんな。」
  「ケイタくんホント黒いね。」
  「天気の良い日はビール飲んで全裸で寝てるよ。」
  「ぜ、全裸。」
  「毎年湧き水使わしてくれる農家の婆さんがいるんだけど、オレの寝そべるとこはせいぜい人が来てもその婆さんだけだからさ。婆さん笑いながらこう言うよ、堂々と見せられるほど立派なモノじゃないだから仕舞っときなってさ。そういえば婆さんこのあいだキュウリとトマトくれたな。湧き水で冷やしてから塩ふって囓ったけど、凄く旨かったな。」
  「トマトは美味しいのだとホント美味しいよね。」
  「旨いよ。パスタに絡めても良いし、加減が難しいけど、こんなとこだったら焼きトマトでもいいし。」
  「へえ。スパゲティーなんかもやるんだ、ここで。」
  「けっこう何でもやるよ。」
  「ケイタは家でだとけっこう凝ったもの作るんだよ。自分で皮から餃子なんかも作るんだよ。これが絶品でビールに良く合うんだ。」
  「へえっ。あたしも食べてみたい。」
  「今度ふたりで来なよ。いってくれれば前もって用意しておくからさ。」
  「わあ。是非ぜひ、おじゃまします。」
  かのじょはそう言うとアヒルのようにした口許に運んだアルミ缶から慎重に飲んだ。ケイタはこの約束を、実行されるタイプの約束だと理解したが、かれにとってそれは、特に楽しみなものでも面倒に思われるものでもなかった。喉の渇きが強かったので、友人に言って二本目を貰った。新しく開けた缶の炭酸はとても素晴らしくて、一緒に缶を開けた友人とかれは同じ喜びのなかにあった。アルコールがくれる緩やかな弛緩にやがて、会話はおよそ意味の薄い、笑顔の印象の帯となった。それは子供の頃から繰り返しに話してきたような話題に、あるいはその後この日を回想したとしても、決して具体性を持たないようなものになっていった。
  ふたりは昼前には帰っていった。浜での会話が尽きる頃に、あと一時間くらいは釣果を期待してみるというふたりと、ケイタはそこで別れたのだった。ケイタはそれからいつものように、決して一カ所には留まらず、入り組んだ浜や下草の土手を巡回しては、古くからかれの知るポイントへむけてルアーを飛ばした。一時間も経たないうちに、遠くからかれを呼ぶその声を聞いた。声を追って見あげると、斜面の獣道をガードレールへむけ、斜めに登ってゆくふたりの姿が見え、かれらはそこで、ケイタへむけ大きく手を振ってよこしたのだった。かれはただ一言、おお、と大声をあげ、おなじように大きく手を振って返したのだった。するとそれまで一体になっていた周囲の自然が、全体として沈黙するさまがかれには解った。自分というものの小ささが自覚され、いま、自分の張り上げた声の余韻する肩口のあたりだけが、思考を漂わすことのできる限られた空間であるのだという、そんな印象にかれは包まれたのだった。そのまま呆然とかれは、友人たちを見あげていた。ガードレールを挟んでは、荷物を受け渡す二人を見て、やがてすべて渡し終えたユミが跨ぎ越えるの見とどけたところで息をのみ、我に返るのだった。
  ケイタは振り返ると次のポイントへ歩きだした。最初に肌を押さえつけるような陽射しの感覚が戻ってきて、枝葉の触れ鳴り、つぎに下草のざわめきが、そしていま湖上を真っ直ぐに貫いて、ウグイスの伸びやかな音色が、かれの空間を押し広げる。自分というものが限りなく小さくなってゆき、がかえってそれが、無限の広がりを与えてくれるようだった。強くなり一点になることと弱くなり全体になることはとてもよく似ていた。それらはともに自他との境界を虚しくしてゆくことであるかの如く。静かな眼差しになりかれは湖面を眺めては陽射しを見あげ、そして気紛れに吹く軽風を見おくった。フローティングミノーを低木がオーバーハングする暗部へむけ投げ込んだ。ポイントへむけ神経を研ぎ澄まし、ロットを横にスイングさせる、難度の高いキャスティングを繰り返しては、繊細に竿先を震わせて、瞬時に移動する小魚の動きを再現することに没入した。バスたちがその先々に身を隠しているのは解っていた。かれらが口を使わないのも解っていたので、これは挨拶のようなものだった。
  湖畔を一巡したケイタは、人工湖の水源となる、三本の支流のひとつにしつらえたかれのキャンプへともどっていた。アルコールが抜けきる直前の気怠さが、歩き続けた疲労とともにここにはあって、それが肉体というこの重い入れ物を、顧みさせようという段階だった。かれはテントのすぐ後ろにあるカツラの細い枝に装備を掛け、その幹にロットを立て掛けたのだった。これといった意図もなくテントのなかを覗き込むと、そこが今朝方あとにしたままであることに、小さな安堵を覚えるのだった。音楽のポータブルプレーヤーとアンプ内蔵の小型スピーカーが、シートを蛇行して配線されている。ホワイトガソリンのランタンが右奥にあって、かれが寝るときに被るキャメルカラーのブランケットが無造作に、中央で山をつくっている。ブックカバーすらない、ヘミングウェイのペーパーバッグ投げ出されている。それは陽に焼けた頁に赤ワインの染みをもち、表紙の厚紙は、その角を反り返らせている。
  枝から枝にナイロン紐を結んだだけの簡単な物干しから、かれはピンチでとめた大小のタオルを手にすると、それをストールのように首に掛けた。テントを上流側へむけ回り込み、土手がつくる色濃い陰りに置いた海釣り用の大きなクーラーボックスを開けると、そこからよく冷えたビールの缶をひとつだけ拾った。歩き出すが直ぐに思い出しテントへともどった。雑嚢から頭髪と躰の洗剤、歯磨き粉とブラシの入ったビニールの巾着を取り出すと、紐のループに指を通して、それを背にまわすのだった。
  かれは跣足だった。河川上流に特有の大きな丸石を踏み歩いては、合間にくちにするビールの炭酸をその喉に染み込ませた。歩調に揺れ、背にまわした巾着のビニールの圧着された箇所の縁が、肩胛骨の下側を掻くことがあるのだった。肩を跳ね上げて向きを変えると、それも具合良く納まった。沢は木々のつくるトンネルのなかを蛇行してゆき、半円ほどカーブする箇所は浅く広い流れなっていて、内側に沢山の丸石を溜め込んでいた。水底に砂はなくほとんどが岩石だった。段をつくる箇所も多く、せせらぎはいつまでもかれの半径に充満していた。
  歩くにつれ川の落差は強くなった。左右に見る岩盤の切り落としも高くなってゆき、色鮮やかなミズゴケやシダの葉の揺らめきがそこにはあった。滝の音が少しずつ近づいてきた。水の匂いが呼吸のなかに紛れ込むと、ビールのアルコール臭が最知された。いまや岸壁に挟まれた谷間といっていいほどの景観だった。見あげるとツガやケヤキの高木が視界の中心へむけその幹を集めていて、その先に少しだけ、懐かしいこの惑星の空が見えた。水音に紛れヤマバトの鳴き声が近くにあった。岸壁をかわしカーブのむこうへ視界が開けると、それこそが目当て、滑らかな水の階段がそこにはあった。
  ケイタはかれがいつもするように、岩肌に懸崖するネムノキの枝にタオルを掛け、岩場の窪まりにビニールの巾着を置いたのだった。ビールの缶をほとんど真上までもってゆき、炭酸の抜けた残りをすべて飲み干した。くの字に折った缶を、帰りに忘れぬよう目のつく場所に置き据えた。しゃがみ込み巾着から歯磨き粉とブラシを取り出した。磨き粉をブラシにのせ、足許の流れで湿らせると、奥歯から順にブラッシングをはじめたのだった。磨き粉のハッカ臭が口蓋いっぱいに広がった。口のなかでたつブラシの摩擦音が滝のたてる水音といつまでも擦れ違った。磨き終え、両手で掬った水を含みゆすがせると、刺すような痛みを覚える箇所がいくつかあった。
  かれはネムノキの枝にひとつずつ着衣を掛けてゆき、しまいには全裸になった。水の階段の下には楕円形をした天然のプールがあり、それがかれの浴槽というわけだった。かれはいつもように恐る恐ると、プールの縁である丸まった岩に腰を下ろし、踵から踝へと、暗色の冷水に浸してゆく。爪先が水没すると、指のあいだに籠もった熱が、瞬間にそこで無くなった。冷たく硬い圧力のなかに、真っ直ぐに伸ばし強ばらせた両脚がすっかり沈んで、縁の岩に後ろ手をついたかれは、次に腰から腹部へ、そして心臓の位置までゆっくりと沈めていった。それまで慎重にしていたかれだが、不意に後ろ手を蹴るように使って、ひといきに頭まで水没させた。水音のなかでじっと丸まり、沈んでゆき、冷水が頭髪を分け入って、すべての頭皮を押さえ込むのをそこでまった。かれはいつものように、人知れずこの水底で、心臓麻痺を起こす自分のことをイメージしてみた。すると心臓のあたりにこそばゆい強ばりが生まれ、がそれはすぐに弛緩し、やがて息が続かなくなったので、水から顔を突き出した。
  水の外には空気があり木々が聳えヤマバトの鳴き声が聞こえていた。ここが自分の居るべき世界であることが充分に解った。かれは頭だけだしたまま荒々しい洗顔をすると、耳に小指を詰めこそばゆい水を抜き、首を細かく振りながら縁の岩に手をついた。塀を乗り越えるような格好で水からあがった。林間をそよぐほどの風もかれには堪らなく冷たく、ケイタはわけのわからない奇声をあげながら跳ね回り、しゃがみ込むと膝を抱え、そこにある巾着から、頭髪と躰の洗剤を取り出した。
  手の平でつつんだ石鹸を体中に擦りつけた。ネムノキの枝からナイロンタオルを手にすると、泡立たせ、全身を乱暴に摩擦した。いまだ身の凍るような思いだった。ともかく全身隈無く洗ってゆき、洗い終え、液状の洗剤を手の平に溜めると、次に頭髪を泡立たせた。髪もまた同様に乱暴に洗った。濃度の高い泡はそのたくさんの気泡により、かれの体温を守りはじめた。
  寒さに凍えていたその呼吸も、穏やかなものになっていた。ケイタは不意に手を止めると、何故だが急に聞き耳を立て、まるで異星人にでもなったようなその気分で林間を見まわした。落水のせせらぎが、全身のしゃぼんをひとつずつ割ってゆくような感触が皮膚にあった。泡は耳許でも絶えず弾け、そういった音の遠近法により、見まわす林間の音景をさながらに、遠ざけているのだった。見あげると焦点になる小さな空をトビがよぎった。ケイタはふたたび冷水の浴槽に飛び込むと、自分というものの輪郭を、瞬時にそこで取り戻したのだった。
  キャンプへの帰路はいつものように清々しかった。内側からたかまる全身の火照りに、皮膚の表面だけにある冷ややかな質感が交差して、なんとも心地よい。感覚の鋭くなった裸の二の腕や肩口を撫ぜるそよ風がまた心地よい。ときおり木漏れ日がうなじや肩に貼りついて、歩行にずれてゆくそのさまが見なくても解った。行きとは違い緩やかに沢を下りながら、いまやせせらぎは向かってくるものでなく、共に歩くものであり、それと手を繋ぎ、また背を押されるようにして、かれはキャンプへの帰路を歩いていた。
  上流側からは決まって違った印象に映るキャンプへと帰り着くと、ケイタは大小のタオルをピンチに挟んで、沐浴の洗剤をもとへともどした。下着を履き、干しておいた灰色のワークパンツに足を通し、同じく干しておいたスミレ色のティーシャツに腕を通した。ティーシャツは古着でいたるところがほつれているが着心地の良い生地のボートネック。靴下に足を通し靴紐をルーズにした編み上げのトレッキングを履いたならば、かれの躰から先までのバルバロイは去ってゆき、ここにきて文明人にでもなったような奥かしさがあるのだった。
  テントを半ば陰らせている湿った土手を木々のあいだを通って上り、ケイタは夕食用に確保しようと、水場へ水汲みにむかったのだった。その指には三分の一ほど残りのある、2リッターのペットボトルが提げられている。いくどとなく曲がりくねる山間の畔道をかれは歩いた。実をつけた梅の木が並ぶ畑をすぎ、農夫たちが土止めに木っ端を打ち込んだ踏みならされた段を上って、清水が絶えず湧きつづけるあの水場へ、かれはむかった。
  旧家の浴室を埋めるタイルのように不揃いなかたちをした棚田にはいま水がはられておらず、がじゅうぶんにそこは耕されていた。ササの群生がつくる天然の垣根を横目に、かれは畔道を歩いていった。目当ての場所に辿り着くと、沢よりも硬く、鉄の臭気を含むような、水の匂いが待ち受けていた。水場は覆い掛かる木々に鬱蒼としていて、むこう一面である岸壁の基部は冷え冷えとしている。突出した岩の亀裂に差し込まれた灰色の細い塩ビ管からは、水滴として途切れないほどの水量の冷水が落ちている。その下にはひと尋ほどのモルタルでつくられた楕円形の浅いプールがあり、水の溜まりは限りなくそこで澄んでいる。
  ペットボトルをそこに立てると、流出させる塩ビ管のくちに、ちょうど良い高さになる。半分ほど水が入るとそれは浮力を無くし、手を離したままでも倒れずに水は溜まる。ケイタはそこで手の平を椀にすると、ひとくちだけの水を含み、その硬さを確かめた。くちをゆすがせると足許に吐いた。振り返り、棚田が曲がり階段のように湖面へむかう景観をそこで見おろした。人工湖はいまだ白昼の景観をとどめているが、気温は徐々に後退し、影が急速に伸びる時間帯がその上に、覆い掛かろうとしていた。時間とは空間のなか方向を持つことのないものだけれど、山間に染み渡る空の粒子の接触こそが、この景観のすべてを上部から順に書きかえてゆくのだなというような思いを、およそこのような表現にせずに、がかれは印象として受けとめていた。
  キャンプにもどったかれは、石で囲った炊事の炉へと薪を落とした。薪は渓流の増水時に漂着した小枝が乾燥したようなものを集めてあり、火だねを勢いづけてゆくときに重宝する。はじめに古新聞を丸めライターで火をつける。やぐらのように組んだ薪の隙に新聞をくべてゆくと、やがて指を鳴らすような音、こびとが舌打ちをするような音を、小枝はたてる。ケイタは決まってこの段になると木炭をくべるのだった。トングで摘んだ木炭を、溶接で自作した五徳の支柱をかわしながら、酸欠に留意して並べていった。そのうちに下部は赤々としてきた。五徳に鍋をすえいましがた汲んできたばかりの水を注ぐと、根菜を纏めてある麻袋から、等大のジャガイモを吟味しては入れ、それが浸るほどになるように、ふたたび水を注ぎ入れた。
  背もたれのないアルミとキャンバスの折りたたみ椅子に腰掛けながら、ケイタは鍋のなかで色を増すジャガイモを見つめていた。夕食までアルコール類を我慢しようと決めたかれは、かれこれ三年は使っているステンレスカップで、冷水を舐めるように飲んでいた。見ていると小さな泡がジャガイモにつきだし、鍋の湯も陽炎のような揺らめきを見せだした。沸騰がはじまるとジャガイモの甘い香りがほんのりたつ。ケイタは火力を一定にするためにときおり木炭をくべ、網焼きをするときに使う鉄製の菜箸でジャガイモを転がした。その目はどこかどんよりとして彩色を欠いていた。火に照らされる頬の張りを感じると立ち上がり、意図もなく川岸を歩いたりしていた。
  ジャガイモに箸がとおるようになったので、ケイタは石の上に敷いた新聞紙にそれを並べていった。クーラーボックスから卵をもってきて、残りの湯に三つ沈めると、その冷たさで沸騰が治まった。ケイタは取り出したジャガイモの熱が冷め易いようにと、新聞紙の上で間隔がとれるよう並べなおした。ふたたび湯が沸いて卵もゆで上がってしまったので、それらをトングで摘み上げ丸石の隙間に置いていった。湯を土手に投げ水際にゆくと鍋を簡単に洗い、洗い終えた。いよいよすることが無くなったので、湖畔を散歩することにしたかれだった。
  アルコールが描く昂揚と沈着の曲線を、常に思い描いてのかれだった。とてもゆっくりと坂道を上がり、決めておいた頂上で足を休め、急な下りを欺すように飲みながら、平地の感覚を取り戻す。かれは上りよりむしろ下りの曲線にこそよく注意をはらった。かれはいま文字通り傾斜のないこの湖畔を平地として歩きながら、しばらくは重々しい肉体の気怠さのなかにある。湖畔の小径は採石を敷いた轍の深い農耕路で、軽トラック一台がようやく通れるほどの道幅だった。その道幅のままで架けられた橋を渡るとやがて対岸につき、思いもなくしばらく歩いたのだが立ち止まり、橋の半ばまでもどり欄干に手をつくと、全面に広がる人工湖を見渡した。
  その動作が釣り人のものだと解るほどの距離に、一組の人影があるのだった。ふたりは黙々とキャスティングをつづけていた。見あわせたような仕草になると、交わされる声が不明瞭にだがとどいてきた。釣り人たちをしばらく眺めていたケイタは、かれらがこの湖をはじめて訪れた者たちであると見当づけた。かれらは飛距離のでるなにか重いルアーを、闇雲に湖の中央にむけ投げていた。それはこの湖のように全体として浅く、入り組んだ地形が網の目のように複雑な浜や小島を隆起させる釣り場では、釣果の期待できる方法でないよう思われた。
  そこから横向きに少し手前へむけ焦点を合わせると、ほかの釣り人の姿があった。人影はフライのキャスティング動作を繰り返していた。この湖でフライフィッシングをする者を見かけることは希にあるが、決まってその動作はどこか不慣れで、映画で観るように美しいものとはいえなかった。尖端にむかうほど太くなってゆくライン、その重さを、さながら牛追いの投げるロープのように遠心力とすることで、ほとんど重さのない毛針という疑似餌を、狙ったポイントに届かせるのがそのキャスティングだった。ケイタはこの湖で毛針にくちをつかうバスをまだ一度も見たことがなかった。そしてフライをする釣り人というものは決まって、釣果よりむしろキャスティングの修練にこそその目的があるように見えたものだった。
  昼頃にかれが友人たちと過ごした細い岬が、フライの釣り人のむこうに、ここからはなお細く見えている。ケイタは妹と出かける予定があるといったかれの友人の女が、そろそろその支度をしはじめているだろうと、思い当たった。ユミというあの女は、かれの友人とは数ヶ月ほどのつき合いであったが、これからもふたりは、長く続くであろうという予感があった。ケイタがユミと話したのは、今日がはじめてといってもいいくらいで、友人の連れとして顔をあわせる機会こそあったものの、それは挨拶を交わすていどのものだった。ふたりが長く続くであろうという予感は、実際に今日、話してみたときの印象が、かのじょを友人の連れとして見かけたときの印象から、あまり遠くなかったことによるものだと、かれには思われた。かれの友人が一年ほど前に別れた女とはその点が違った。ケイタは友人には黙っていたが、なにか説明のつかない違和感というものを、いつも感じ取っていたのだった。
  景観は夕刻の退色を受け入れようとしていた。ことのほか入り組んだ地形を分け入る湖面こそが冷ややかに、先だって色彩というものを欠いていた。思索に耽り、こうして湖面を眺めていると、ケイタはおよそ数ヶ月ぶりに、喫煙の衝動を思い出した。キャンプには一本の煙草も持ち込んでいなかった。かれが煙草を吸いたくなることの多くは、決まって目の当たりにする友人らの喫煙によるものなので、自ら手に入れた有意義な孤独のなかで、貰い煙草をする相手すらいないことに、かれはささやかなもどかしさを感じていた。
  鉄の欄干を手の平で叩きながら、空洞の反響が端にゆくほど短くなってゆくことを楽しんだケイタは、木々の影が長く折り重なり漠となり、あたり一帯がもはやその照度となった採石の小径を歩んでは、キャンプへとむかった。太陽はずいぶん前から山の背に隠れていた。大気は澄み雲もなく、それだから放射は、ひとときも空に映らなかった。
  かれがキャンプにもどった頃には、全てが青暗くひっそりとしてしまい、殺伐がその周囲を満たしていた。その、青暗く見える全てのなか、青暗く見える自らの手の指先で、ホワイトガソリンのランタンにかれは、火を灯したのだった。ポンピングを数回繰り返しタンクの圧力を上げる。ライターでマウントに点火すると、今シーズン新調したばかりのランタンは、直ぐに輝きを安定した。ランタンの光が眼に馴染むと、薄闇に映える唯一であるその暖色の輝きが、キャンプにささやかな居住感をもたらした。
  熾きになっている炊事の炉に新聞紙をくべておくと、フライパンや食材を手にもどるまでに、それは炎をあげていた。丸めて玉にした新聞紙をさらにくべ、トングでつまんだ木炭をその周囲に並べると、ケイタはそれをよそに料理の準備をはじめたのだった。
  日中は日陰に置き据えていた海釣り用のクーラーボックスを、枝にさげたランタンの下に置き、その上にのせた樹脂製のまな板で食材を刻んでゆく。先ほど菜箸が通るまで茹でておいたジャガイモの皮を剥きひとくち大の乱切りに、真空パックのベーコンを、そしてニンニクを三カケ細切れにして、小さめを選んだ玉葱をひとたま縦切りにしてゆく。切り分けた食材はひろげた新聞紙に落とし込む。ベーコンだけをヘラにした包丁でフライパンに落とすと、食材の準備はこれで整う。
  赤々となった炭の上、かれが溶接で自作した五徳の上に、細切れのベーコンが中央で纏まった、フライパンをかける。ベーコンの香りがたち脂の溶け出す音がなると、それをただひたすらに、磨り減った木ベラで掻き回す。脂がすべて溶け赤身だけになるころに、ひとくち大にしたジャガイモを加え、掻き混ぜながら全面に焦げ目をつける。すぐに玉葱とニンニクを加えさらに混ぜ合わせ、瓶売りの塩とブラックペッパーで味をつける。最後に一センチほどの厚みに切ったバターを溶かしながら回し入れ、すぐにフライパンを火から離し、余熱が少し下がるまで、しばらくはまだ掻き混ぜる。
  新しく取り出したビールを片手に、ケイタはさっそく作りたての、ジャーマンポテトにフォークを刺した。かれはそのひとくちを頬ばる前に、先ずはランタンの明かりにかざしてみる。揺らめく湯気を上げるジャガイモの表面には、細かくなったベーコンの赤身が、狙い通りに付着している。ケイタは丸ごと頬ばると、くちのなかで転がしてその熱を冷ますのだった。はじめはバターの風味、遅れてベーコンの香ばしい味わいがくちいっぱいに広がると、かれは慎重に歯を沈めて、くちのなかで噛み砕いたジャガイモの味わいを楽しんだ。塩加減も良さそうだった。かれはビールを力強く嚥下しながら、ポテトと玉葱を交互に頬ばり、その満足気な眼差しを熾きにむけた。
  最初に調度良く思えた塩加減も、食べ進めるごとにその塩辛さが勝ってきた。ビールは直ぐに二本目を開けた。ビールが良く進むそれは塩加減だった。テントの傍らに積んだ缶詰の山から、ケイタは思いつきでパインアップルを選んできた。タブを起こし缶詰を開けると、果肉をよそに先ずはシロップを飲むのだった。かれは甘いシロップを含み、少し塩辛いポテトを食べ、ビールを飲んで輪切りになったパインを食べた。それは申し分のない組み合わせだった。いまやランタンが照らし出すだけの世界のなかで、川のせせらぎを絶えずその耳にし、ケイタはアルコールの初歩に触れながら、とても良い気分になっていた。茹でておいた玉子をひとつ割って食べた。パインの缶詰を食べてしまうと、グラスにウイスキーの水割りを作った。冷えてしまったポテトをときおり頬ばりながら、水割りを舐めるように飲んでいった。かれはランタンの明かりに負けてしまいそうな弱々しい熾きをじっと見つめ、せせらぎに耳を澄まし、自分のなかのどこまでも冷静な一部分が、ウイスキーのもたらす酔いと拮抗しているのを、つぶさに感じていた。やがて熾火は見えなくなり、ランタンが照らすのは白い灰だけとなり、せせらぎは淀みなく、内耳で反響を続けながらどこまでも泡だっていった。
  テントに潜り込んだかれは、キャメルカラーの毛足の短いブランケットにくるまると、やがて訪れるはずの眠りを待った。かれはいま心地よい酔いのさなかにあり、その肉体は解放され、背にする地殻の奥底へむけ、ゆっくりと落下してゆくようだった。けれどどこまで沈み込んでいったとしても、月光が目前に浮かび上がらす、キャンバスの天井が遠退くことはついぞなかった。ランタンを消すことで浮かび上がった月光の世界は、とても居心地の良いものだった。目が慣れるとキャンバスに覆い掛かる木々の輪郭がぼんやりと見え、耳にはせせらぎに紛れるささやかな地虫の音、そして緩慢な風が触れ鳴らす枝葉の音が聞こえてきた。いまや地球上からすべての都市と文明が失われてしまい、こうした自然現象だけが、唯一残されたものであると納得できた。ケイタはいま何かしらの真理に触れているのだと自覚していた。がそれでもこれは、刹那的で儚く、すぐに喪失する感覚であると、理解していた。
  どれくらい眠ったのだろう、酔いが醒めそれにより眠気も覚めかけたケイタは、尿意を気づきとることを切っ掛けに、その目を夜気にむけ見ひらいた。テントは夜半に吹き始めた風に、微かだがはためきの音をたてていた。ケイタはアルコールの抜け落ちた痼る躰を肘づいてテントから這い出すと、思うより明るい月光のなか、川にむけ小用を済ませたのだった。すぐにテントに這いもどり、眠気がすっかり覚めてしまわぬうちにと、ブランケットをたくし上げた。仰向けになり眠りを待つのだが、待っているあいだに意識は冴えはじめ、肉体の感覚も、やはり冴え渡ってしまうのだった。するとこれまで気になることのなかった床下の凹凸が、気づきとることによりなおのこと、かれの背筋に痛くなった。そこにはスーパーで貰った段ボールが、弾力を産むほど充分に、重ねてある。設営からの日数が、その下の川原石の凹凸を、浮かび上がらせてしまったのだろうか。かれは躰をくねらせて背筋に具合の良い姿勢を探り、探りあてた。それからは目を閉じたり見ひらいたりした。テントがときおりはためいて、その風が枝葉を触れ鳴らしてゆく。
  ブランケットにくるまって身動きもしないでいると、いつしかかれはあの女、エミの質感を思い出していた。あの冷たく細い腕がかれの首筋に絡まってくる。バストを押しつけながらかれの前面を這い上がると、しっとりとした髪を巻きつけて、小さな耳朶を密着させる。暗闇のなかで瞬きをすると、下から覗いてよこす上目遣いの、眼球の白い縁が明瞭に浮かび上がる。徐々に意識は薄れ眠りかけるのだが、女がいつかかれを夜半過ぎに起こしたときと同じ声が、ほとんど現実のように耳許で再生される。かれは行きつ戻りつとする意識のなか、時間や空間の感覚を失って、あの女に包まれていた。それはアルコールがもたらした真理の片鱗ともいえるあの感覚と、対極をなすものだった。息を呑み目をしかと見開くと、キャンバスのむこうを、ヨタカが音もなく一瞬で過ぎ去った。
  次に見るキャンバスの明らみは、黎明の空明かりに浮かび上がらされたものだった。夜気は去り周囲は風も止み山靄の汲み上げる土の臭気を気づかせていた。ケイタの意識はこの朝にむかいいつまでも判然としなかった。背中には痛みを訴える部分があり、首筋に忍び込む朝の冷気には受け容れがたいものがあり、叶うならばと惰眠を貪りたい欲求がいつまでも捨てきれなかった。仮にあとひと眠りすることができたならば、その後には気分の良い目覚めが待っているのだとかれは盲信した。けれどいつまでも眠ることはできず、身を横たえ続けることの倦怠が、いつしかかれを、ついにテントから這い出させた。
  履きならしたデニムの色合いのような夜明けだった。頭上の梢から、目前の空域を抱きかかえるようにして、一羽のカラスが翼を鳴らした。カラスは薄い山霧にその姿を霞みながら、棚田の上部にあるポンプ小屋、その傍らで、低圧を引き込む丸太の電柱に被せた帽子のような金具へと留まり、そこで真後ろまで首を曲げ背中のあたりをつくろうと、対岸方向を見澄ました。山霧はそのあたりでは晴れていた。山間をゆっくりと下る流れの風が、澄んでいる風だった。
  ケイタいまだ自らの温もりの残るブランケットを取り出すと、マントのように後ろにまわしてその肩に羽織らせた。曖昧な眠りは不快にならないほどの、目覚めに意識の集中を高めるほどの、微かにこそばゆい頭痛を全体に残していた。その曖昧な眠りに、ともすれば深い眠りが残すような、顔面の浮腫を感じずにいるかれだった。かれはブランケットを握りしめる両の手を鎖骨のあたりにむけ交差させ、いまだ体温の籠もらないトレッキングで爪先立ちのように歩きながら、デニムが褪せたような色合いの朝をゆきつもどりつとし、いち早く火を熾そうと準備している。温かいブラックコーヒーのことばかりを考えているかれだった。くちのなかの不快感を、コーヒーの渋みで取り除きたい。
  火に掛けたケトルが沸騰すると、小さじで四杯の顆粒をステンレスのマグに溶いて、かれはコーヒーをつくった。ひとくち含むとインスタントとはいえ期待しただけの香りと渋さがあり、かれの鼻腔からこめかみのあたりには、幸福感が広がった。ケトルを下ろし、前日の焦げ付きをそのままにした焼き網を五徳にかけると、火力が調度良く衰えたのを確かめたケイタは、二枚の食パンをそこにのせた。コーヒーを含み、くちのなかで転がしてから嚥下し、食パンが焼かれてゆく香ばしさを楽しみながら、加減をみて裏返した。待っているあいだに、夕食で茹でておいた玉子をひとつ、食塩をまぶしながら食べてしまった。焼き上がったトーストは二枚ともバターを塗って食べた。食べながら最後の茹で玉子を食べ、食べ終えてから同じ濃度のコーヒーをおかわりした。
  山霧はすっかり晴れ上がった。朝陽は折り重なる山塊のむこうだが、もはや夜明けとして差し支えない明るさがあった。朝食で躰の温まったケイタは丸めたブランケットをテントに投げ入れ、いまだ首筋に寒気を感じてはいるものの、やがては歩調に温まるだろうと、それで良いとした。携帯用のルアーボックスをワークパンツの腰に巻き付けバックルをかませた。ロットを手に川下へと振り返ると、かれはその瞬間、生まれて初めて、その肉眼でカワセミを見た。それはツバメのようにしなやか翼を持ち、その青はベルベットのような光沢を持ち、スプーンのようになだらかで大きめな頭をしていて、そこから細長い嘴を伸ばしていた。カワセミは細い枝先を幾度か飛び移り、流れの様子を眺めていた。ケイタはこのときただ呆然と見とれていただけだったが、後日この出来事をこの時点で、後の釣果に対する吉兆であると確信していたかのように、まるで都合良く記憶した。
  山間を縫う車道にはまだ通りが少なく、ときおり思い出したかのように表れる、過積載のダンプカーだけが、息も絶え絶えに登坂していた。ディーゼルのピストンが上下する様子が容易に想像できるその音が遠退くと、人工湖の湖畔は、やがて静寂に包まれる。ケイタは草むらを通るとき朝露に濡れてしまったトレッキングを交互に差し出し、小径の採石の鳴る自らの足音だけを聞きながら、ポイントへむかっていた。歩いているといま自分のとっている行動の全てが、完全に自由で、なんの制約も受けていないということが身に滲みてわかった。それでいてそれは、強い願望によるものでもなかった。とても当たり前の行動だったので、それについて考えてみることこそが、愚かなことに思えたのだ。
  朝の織りなす静寂のなか、欄干を叩く反響を楽しむことなどしないで、空だけに照らされる鈍色の湖面を眺めながら、ケイタは橋を歩いていった。渡りきったたもとには、ガードレールがはじまるまでに土手を下る獣道があって、その、踏み固められた粘土質の黄土を滑らす、朝露に留意してのかれだった。浜に下ると近づいた湖面は、磨いた軟鉄のような鏡面だった。稜線の切れ目から差し込みはじめた陽射しに照らされ、山肌や小島の雑木林で、その葉叢が輝きだした。静寂はいまひときわ深まり、浜を踏みつけるトレッキングの粘着がたてる、ガムを噛むような音だけが半径にあった。ケイタはポイントにむけ気配を殺し歩き続けた。水際から距離を置いて、かれは慎重に歩いていった。
  雑木の小径に腐葉土を踏みつけながら歩いてゆくと、林間には植物の目覚めはじめる、樹液の巡りだす気配があった。瘤丘の尾根を登ってゆき身の丈ほどの鳥居を潜ると、妻社をまわりこんで、そこからは丘を下っていった。クヌギの根が山止めする落差ある水際の小径をかれは、しばらく歩いた。大きく回りこむとその内側には小さな浜があって、樹皮に手を添えて音もたてず、ケイタはそこへと降り立った。夜半の夜風に張られたのであろう、まだ新しい蜘蛛の糸を前髪から剥がしたかれは、そこから見える山間の入り江を、眼を細め遠望した。
  両側面を木々に挟まれた細い入り江の最奥が、浅瀬の浜になっている。そこではそのあたりだけが開けていて、そこにはこの時刻になり射し込んだ、朝陽が溢れかえっている。トンネルの先の景色のようなそこでいま、浜は微細な粒子を輝かし、水面は土色一色であるその濁りを、温かく輝かしている。水際の広い浅瀬にバスたちのライズが走ると、その曲線が眩しかった。かれらはいま遠くから見つめるケイタの存在を解しもせず、入り江のむこうの袋小路へと、小魚を追い込むことに夢中だった。ケイタはつぶさに見すえたまま、足のあいだにロッドを立て、その先に垂らしたままのクリップを手探ると、トップウォーターのひとつである、ペンシルベイトを取り付けた。かれはその一投に全てを込め、頭上を振りかぶる力強いキャスティングで、遠投した。ペンシルベイトは砲弾のように空を切り真っ直ぐに飛んでいった。さらに飛び、陽射しの領域に差し掛かると、それは尾を引くラインの放物線を、白髪のように輝かせた。ルアーはかれの狙い通りに、ライズするバスたちのむこう側に、飛沫をあげて着水した。すでに着水を見越したケイタは、ラインの弛みを巻き上げていた。かれは50メートルは吐きだされたラインの弾力を鑑みて、大袈裟に竿先を震わせながらリールを巻き、ルアーにドックウォークというアクションをつけた。ライズするバスたちの背鰭の波が、ルアーを避けるようにして二分した。それでも諦めずドックウォークを続けると、目一杯に広げられた大きなくちの鼻面が、次の瞬間、土色の水面を持ち上げた。遠くで竿を握るケイタの手中に、獲物の手応えが伝わった。竿を頭上に立てもう一度しっかりとフッキングさせると、リールのドラグが悲鳴を上げ、ラインがしばらく吐き出された。怒りに満ちたバスははじめ浜を逃げ横向きに走った。獲物の疾走はケイタの手のなかに鮮明な振動をつたえてよこし、かれはいま、バスに対峙する背面の皮膚をいっせいに総毛立たせながら、かつてかれが釣り上げた全てのバス、かれが取り逃がした全てのバスと、いや、それよりも遙か遠く遡って、全ての狩人とその獲物、全ての漁師とその獲物と、それら全てが対峙した瞬間と、完全に同化していた。


  <了>



  2009/10/31 sai sakaki


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