移動湖を追って
    著・榊蔡‐sai sakaki




  砂礫の大地は遠景を縁取る薄墨のような稜線に囲まれ、そこまではおよそ目につくような起伏すらない。風向きの変わらない風が吹いている。車窓から 頭をとびださせたときに聞くような風鳴りが、耳朶のあたりにいつもある。その風はいつも乾いている。空はとても高く希薄で深くつかみどころなく、きっと細い雲の掻き傷は画用紙の上、描けばたちまち水の上に、じんわりと滲みだしてしまうのだろう。
  カプラーを外したトレーラーのアルミ荷箱のなかに三台の洗濯機がならんでいる。三台とも稼働中で、回転が反転するタイミングが同調したり、また思い思いになったりしている。野外では水中ポンプに電力を供給するためのジェネレーターがか細く一定なそのエンジン音をきかせている。ポンプは大地の裂け目さながらの断層から吹き出す地下水の溜まりに沈めてあり、キャラバンがこのあたりに駐屯するときにはいつも決まって、この水源を利用するのだ。
  荷台の床にアンカーで固定したコカコーラの赤いベンチに腰掛けながら、ぼくは観音開きの外に広がる壮大な大地に目をやった。打ちこんだパイルにつたわせたナイロン紐に吊りさげた洗濯物が、こちらへと曲線の腹をみせている。それは決して翻ることはなく、いつまでも緩慢な上下を繰り返しているにすぎない。組んだ膝の上に載せたポルノ雑誌に視線をもどすと、瞳孔が緊張を解くまでの幻惑が去ったあと、テンガロンを被った白人の女性の、大きな酒樽に肘をつくその姿がだんだんと浮かびあがってきた。
  砂礫の大地をはっきりと縁取る観音開きの底辺に、スリーピーの飼い猫、バビロンが軽やかに跳びのった。全身が灰色の雄猫で、ながい尻尾を砂礫の光 彩にむけゆらりとさせながら、肩を気どらせ整然としたその歩調でこちらへ来る。ベンチに跳びのって、肘のあたりにその額を擦りつけてきた。頭を撫ぜてやるといちど鳴き、ベンチを飛びおりて配管の漏水が溜まりをつくる床板に歩みより、可愛らしい音をたてその水を啜った。
  ぼくは日に焼けたポルノ雑誌を傍らに置くと、トランスレシーバーやその充電器がならぶラックから一冊のペーパーバッグを手に取った。それはエイミー・ブ ロンテの嵐が丘だった。三台の洗濯機がその回転を響かせる荷箱のなかで、はじめに活字の羅列であったそれはやがて、ヒースの丘を満天の新月がその香りで満たす、スラッシュクロス邸の佇まいとなった。やがてぼくは戯曲のなかのヒースクリフその人になった。観音開きの野外に目をやると、そこには不毛の、どこまでもつづく砂礫の大地があるのだった。
  ページを捲ると、一枚の紙片がそこから落ちた。なにか小さな菓子の包み紙のようなものに、細かく丁寧な字でなにかが書きこまれている。目を凝らして読んでみると、

  愛されることは幸福ではない、愛することこそ幸福だ ─── ヘッセ

  心から愛された経験をもつ女は生涯孤独を知ることはない ─── リルケ

  いつも変わらなくてこそ本当の愛だ。たとえ全てを与えることができても、たとえその全てを拒まれたとしても ─── ゲーテ

   ─── とあった。ぼくはこの戯曲に対しリルケを添付した人物というものに束の間だが思いを巡らせていた。そうやって紙片を呆然と眺めていると、充分に喉を潤したバビロンが、裸足にサンダルを履いたぼくの足首のあたりにその躰を寄せてきた。書体は男女の判断をもたせるまでに至らない中性的なものだった。漢字に対して平仮名が小さく書かれる、強さとしなやかさを併せもった書体だった。バビロンが足首のあたりに執拗に絡みついた。さきまでこの荷台の下で涼んでいたであろうその躰は、まるで女の髪のように、しっとりとしていた。
  ぼくのなかでまだ世界がしっかりとしていたあのころ、その女と、たがいに深酒をしたなりゆきにはじまった性行為の、それは翌日の昼下がりだった。たがいにたがいの性器をむさぼったあげくに、どうやらぼくの方は男としての終わりを味わうまえに、追いすがるアルコールの麻痺のすえいつしか知らずと眠りこんだらしかった。目が覚めると、高層建築が立ち並ぶアパートの窓外を背景に、パールピンクのペティギュアが剥がれかけた女の爪先があるのだった。女はぼくの足首を枕にして寝ていた。かのじょの鼻息がくるぶしのあたりにこそばゆく、またその呼吸は、眠りのそれとは思えなかった。しっとりとした髪が足首のあたりに絡んでいた。観音開きのむこうの空と、空の奥行きだけがよく似た、そんな記憶の窓外だった。
  洗濯機のブザーが不意に鳴った。足首に絡んでいたバビロンが驚いて、観音開きを野外へと飛びおりた。ぼくは紙片を嵐が丘のなかにもどすと、スーパーマーケットの店名がかすみかけた樹脂のカゴを抱え、脱水のおわった洗濯物を、そこへ無造作に放りこんでゆく。たいがいがトップスのティーシャツと下着のたぐいだった。男物だけではなく、ユキコやチャシャのショーツやキャミソールまでが混入している。ぼくは薄暗い洗濯槽に取り残しがないか充分に覗きこむと、洗いカゴを抱えたまま、くっきりとした観音開きを、砂礫の大地へむけ飛びおりた。
  量感はないものの形の良いバストをはだけたまま、チェアーベッドで躰を焼くチャシャが、サングラスのフレームをつまみそれを額へと上むかせた。むこうで力なく垂れさがっていたたがう手のひらで口許をつつむと、それをどけ色濃い煙を風向きの変わらない風に霞ませた。ニヤリとし、ご苦労、と偉そうに言ってよこした。ぼくは笑いながらカミソリに見立てた自分の親指で自らの首を横一文字に切ると、それを真下に向かわせて、地面に突き立てるような仕草にする。チャシャは笑顔のあとサングラスをもどした。ぼくはサンダルで砂礫を踏み、その音をたてながら、日射しのなかをゆっくりと、まるで目的のない人のように歩く。
  ユキコは乾ききった洗濯物を、籐で編まれた大きな洗いカゴのなかに集めていた。ツバの大きな白いリボンのかかる麦藁帽子を目深にかぶり、その日陰にすっぽり収まってしまいそうな細い肩を覗かせる土色のワンピースの裾を、風向きの変わらない風に靡かせていた。スーパーの店名のかすれかけたカゴをかのじょの傍らに置き据えて、ぼくはひとこと、はい、と言った。かのじょは麦藁帽子がつくる日陰のなかで、こちらを見ない横顔で、ありがとう、とかえしてきた。ぼくたちはこれまでなんど、はい、と言って、ありがとう、と言っただろう。そんなことを思いながら、いつになくその横顔を見ていると、こちらをむいたユキコが、麦藁帽子のツバの下から、その上目遣いを覗かせた。
  かのじょが取りいれた洗濯物を小脇に抱えるとぼくは、車両から大きなカンバスで差掛けをつくり、そこにテーブルや椅子を並べてある、食堂車へと砂礫を踏んだ。通り過ぎる洗濯車両の車体の下では、バビロンが大きな欠伸をひとつたてていた。その飼い主であるスリーピーはいま、郵送車の後部バンパーに腰掛けたまま、肩に沈めた小さな頭の面持ちを真剣にその手元にむかわせているのだ。ナイフを切り込ませプラグの接点を調節しているらしかった。かれはぼくに気がつくと、眠った人のように細いその目で微笑んで、思いのほか甲高いその声をきかせた。

  「さっき頭領に言われたよ。キャンプのあいだにお前とふたりで、地図を埋めてない西の方を探索しろってさ。サンドバイクの赤い方、まだ直ってないだろ。オイル継ぎ足しながら走らせればなんとかなるかもしれないけどさ、気易くいってくれるよな。」

  昨夜のうちにぼくは、頭領にその話しをきかされていた。そこでこの話しをいま知ったと装えず、かえす言葉も上手く思いつかないままのぼくは、肩で戯ける仕草をかれに、かえすのだった。かれは袖無しのライダーズジャケットとスキンヘッドというそのいでたちで、ぼくより大袈裟にその仕草を真似てかえしてきた。ぼくは気心の知れた仲間とのこのやりとりをあとにして、車窓から頭をとびださせときに聞くような風鳴りを追い風で聞きながら、それがもたらした幻聴を、風の言葉を、ひとつもらした。

  あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ ─── レビ記

  陽の位置と風向きと全方位に広がる砂礫の大地を充分に感じながら、ぼくは曖昧な列になり並んでいるトラックやトレーラーのむこう、そこで居住感を広げている、食堂車へと歩いていった。慌てたようなその声に促されふりかえると、麦藁帽子を風に奪われたユキコが、ひとつに結んだ黒髪を踊らせながらこちらへと駆けてくる。帽子は大きなツバを車輪のように見立て砂礫を走ってきた。やがてしゃがみ込むぼくの手の中に、それはちょうどよく収まった。


  <了>



  2007/07/22 sai sakaki


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