アンジェラ
    著・榊蔡‐sai sakaki


  ── 1 ────

  十一月ともなれば景色が精彩を欠いてしまう海岸線の小高い岬に、その背に失われた翼の痕跡だけをなごりにする、ひとりの少女が暮らしていた。彼女は背の高い白髪の老人とともに暮らしていた。ふたりが血族にあったのかは定かではないが、彼らは岬の突端に古くから構える石造りの邸宅にいつの頃からか移り住み、入り江に栄えた港町からはどこか疎隔した、ふたりだけの生活をそこでおくっていた。
  少女は華奢であり肉体の魅力には乏しいといえ、人形のように美しい。老人は常に銀縁の眼鏡を鼻に掛け、表情に乏しく、そして彼が膝にのせる書物のように寡黙であり、けれどそのことを実際に知る者は、少女の他に少なかった。少女はリアス海岸の岸壁に沿う小径を下っては、港に肉類や葉野菜を買いにあらわれた。冬には修道女のような装束を、皺や一切のほつれをみせず着込んでいた。夏には袖なしのワンピースに日除け帽という格好で、たとえその一日が海の凪ぐ蒸し暑いものとなったとしても、必ず薄生地のショールでその細い肩を隠していた
  邸宅でのべつ変わらないふたりの生活は、およそ簡素なものだった。窓から見渡せる水平線と、ふたりが読み進める活字のなかに、そのすべてがあるとしてよかった。ともに各々の部屋の窓際で、格子の影が掛からない場所をえらんでは、それぞれがそこに木椅子を置き、窓外の柔らかい輝きでページを照らしながら書物を読んだ。老人は古い歴史家の書き記した長大な戦史を読み進め、終いまで読んでしまうと、ふたたび始めから読みはじめた。少女が好むのはそれ以前に記された神話ばかり。生い立ちの記憶でさえ失った彼女はそう、神話のなかで生きているとしてもよいくらいだった。
  書物のなかの神々の世界、そしていつの頃から繰り返されているここでの暮らしの他に、彼女には慣れ親しむことのできるものが無かったに違いない。あの細い小径を下ってゆき、食料の買い出しで町の人々と接したとしても、彼女にはまるでそれら一つひとつの面持ちが、自分とはなんら関係のない人たちのものに思えたのだった。彼女は決してそのことをくちにしないが、こうして共に暮らしているあの老人、いまだ逞しさすら感じさせる体躯の持ち主であるあの老人でさえ、その点では同じといってよかったのだ。ここでの暮らしはまるでそう、初巻の失われた書物の下巻、まるでその書き出しといって差し支えないものだった。彼女がこの下巻を書き出すにあたり想起とするものがあるのだとするならば、それは彼女自身の蒼白な背に残された、翼の痕跡だけだったに違いない。
  老人が午睡に就くのを見はからって、彼女はその痕跡をこの日もまた確かめるのだった。胴着を肩から滑らせると、胸を隠すように前に抱き、窓際の壁に掛けられた姿見にその背を押しつけるように近づいて、前に持つ手鏡のなかを真剣に覗き込む。合わせ鏡に映るものは、生え替わりで失われた鹿の角、その基部にあるものにどこか似ていた。力を込めると左右それぞれが自在に動いた。そしてそのことを意識するとそれからは、部分にむず痒さのようなものが残るのだった。少女はそれをまるで悪しき疾患のように、それでいてなにか神聖なもののように眺めては、うっとりとした面持ちになる。胴着を背負うように着なおすと、その美しい顔を姿見に映し、ゆび尖でくちびるを撫でるような、そんな悪戯な仕草にする。
  どれほど心を抑えたとしても、少女はきっとそのことを、いつの日か思い描きはじめるに違いない。わたしは翼をもぎとられた天使なのだ。かつてはこの地上ではなく、眩い煌めきに包まれる、天上の楽園で暮らしていたのではないか。どうしてこの翼は失われてしまったのだろう。わたしは地上の者にこの身を射られ、翼をもぎとられてしまったのではないか。あるいはこの現実はひとつ罰であり、それに値する大きな罪を、どこかで犯してしまったのではないか。
  少女はそれならばと注意を払い、思いを正し、まったき人として生きてゆくことだけを心がけた。詮索好きな港町の婦人たちとも丁寧な挨拶を交わし、自身にむけられる好奇の眼差しを知りつつも、親しみのこもった笑顔をみせた。潮風に目を赤らめ、全身の体毛を陽射しに脱色された逞しい漁夫たちにもよく漁獲を訊ねた。商人たちとはその店先で当たり障りのない会話をし、またそれらを疎んでいるような印象は、ついぞみせなかった。けれど多くの女たちは彼女に言い様のない隔たりを感じ、また多くの男たちはその美しさに魅了され、が彼女のガラス玉のような瞳のなげかける眼差しが、自分の躰を擦り抜けていってしまっているというような、そんな居心地の悪さを覚えたのだった。
  少女は人々に与えてしまっているそんな印象を、少しも気づきとれず、また仮にそれができたとしても、おそらくはその印象を心にするための感性というものを、持ち得ていなかったのではなかろうか。彼女は繰り返しに町を訪れては、老人に食べさせる食事のために食材を買い求め、いつも変わらない演じられた笑顔で人々に接し、そしてその彼女特有の、相手にどこか虚しさを味わわす対応の余韻を街路のあちらこちらに残しながら、小径を昇り岬へとむかう、家路につくのだった。
  夕食にはたいがい、明るいうちに書物を読みながらゆっくりと煮出したチキンストックに、その日に買い求めた野菜類を加え、スープをつくることが多かった少女。この邸宅ではふたりともに食が細く、スープで嚥下する丸パンの数もまた多くはなかった。ふたりはテーブルクロスの掛けられていない使い込まれた円卓に向かいあい、それぞれの手許に敷かれたランチョンマットにのせられるささやかな料理を、少しずつくちに入れてゆくのだった。潮風の強い夕刻には窓ガラスが震え、首筋の和毛をこそばゆくさせるような風鳴りが鳴った。ふたりはその呼吸の数も少ないようで、そんなふたりの食卓の上で、燭台の炎がすきま風に倒れ、すぐに真っ直ぐになるのだった。
  少女はその日に町で見たものを、ときおり老人に話すのだった。老人はその話題に頷き、それらに添えられる知識があるようであるならばと、それを話した。ふたりの会話は断片的で、またお互いにそれだけが必要だということは解っていた。少女はこの老人との暮らしをなにか宿命のようなものと感じていたし、老人は遠巻きに彼女を見守っているようなところがあるのだった。そんなふたりの暮らしのなかでは、お互いにその名を呼びかけることも少なかった。老人が最後に少女をその名で呼んだのが何時のことであったのかさえ、ふたりとももうとうに解らなくなってしまっていた。
  会話はこのように些末なことに限定され、老人が不意に少女の生い立ちを語りだすようなことはついぞ無かった。また少女からそのことを訊ねるようなことも無かったのだ。老人ははじめからそのことについてくちを噤むようなところがあったし、少女もそれならばと耳を塞ぎ、自分の背に残された翼の痕跡だけを由来とした、生い立ちを思い浮かべ時を数えた。寧ろそれ以外のことが語られることを、彼女は快く思わなかった。老人はいつも喉もとに言葉の詰まったような心地であり、がそのことを言おうというのでもなく、少女をただそこで見まもっているのだった。彼は戸口から薄く窺いしれる少女の部屋で、彼女が神話を読む静かな窓辺を見つめては、目をしばたいた。客間の長窓に立ち止まると、そこから見おろせる断崖に沿った小径に、彼女が町に下ってゆく背姿を、そして帰路には買い物籠を肘に掛け、ときおり水平線を眺めては、向き直り、そしてこちらへと近づいてくる、その姿を見まもった。少女はいまふたたび足を止め水平線を眼差した。十一月ともなれば精彩を欠いてしまう海岸線に立ちつくす少女の、長い髪がいま風に流れ、見ていた老人は瞬きをひとつ、そして次の瞬間を一枚の絵画として記憶した。そんな日々の繰り返しに、絵画から時がやがてという隔たりによって飛躍する。


  ── 2 ────

  それは海から訪れる一日のはじまりに、彼女が涙を浮かべながら祈りつづけた甲斐あってのことだったのかもしれない。少女がはじめてその変容に気がついたのは、そんな青白い夜明けのなかのことだったのだ。寝台で背を丸め枕を抱いていた少女はその日、いまや水平線に滲み出そうという太陽への祈りのため寝返りを打った。すると彼女はその瞬間、僅かながらの違和感をそこに覚えたのだ。それはシーツの生地を背中の痕跡が引っ掻いたような感触で、これまでにおよそ感じたことのないようなものだった。
  少女は音のたつように息をのむと直ぐに、がそこからは恐るおそる、自分の背中へと手をまわしてみた。先ずは自らの肘の内側にくちづけをするような格好で手をまわし、次には後ろ手に締め上げられるような格好でその尖端に触れてみた。ゆびの先には確かにその感触があるのだった。それまで切り落とされた断面のようであったその痕跡に、ちいさな突起が生まれていたのだった。少女は寝台から跳ね起きると、走り寄った鏡台から手鏡を鷲づかみ、直ぐに窓辺の姿見の前に戻ってきた。寝間着を肩から滑らせて足許に落とした。海からの柔らかく横向きの光源に人形のような裸を照らされて少女は、合わせ鏡の無限の奥行きのすぐ手前を、真剣な面持ちで覗き込む。変容は確かにそこに見られた。彼女はその尖端をゆび尖で愛で、自分の周囲でだけ渦を巻くような鼻歌を歌っては、飽きるまでそれをつづけ、嬉々として齣のように回りながら寝台に倒れた。手の平を握り合わせ太陽に感謝した。目頭から鼻梁へ、そして目尻へとつたう涙が、頬にするシーツへと染み込んで、その部分を温かくそして柔軟にした。
  よりいっそうの祈りと、神託に耳を傾ける日々が、そこからははじまった。しばらくはショールで隠すことのできた翼にそれが適わなくなると、老人が町の少年を雇い、少女の役割であった買い出しをすべて任せたのだった。少女はその部屋にただひとり引き籠もり、その窓辺で、神話を読む木椅子と姿見の間を往復した。少女の姿が海を背景にしてその残像を積み重ねる。すると日毎にその翼は確かなものになってゆき、まるで羊歯類が繊細な葉を広げるように、純白の羽根が広がりをもって生え揃ってゆくのだ。彼女はまるでオペラのヒロインが自ら伸ばしたゆび尖に眼差しを絡めるように、日毎に操れるようになってゆく翼を広げると、その尖端を遠く見すました。胸の前で手をあわせると俯いて翼を畳む。老人はそんな彼女を、それとは知れぬ難色の眼差しで見まもるのだった。
  翼をもつ者の定めとして、少女は空への憧れを、そしてその時代その向こうに存在すると思われていたものへ憧れを、いつしか抱きはじめたのだった。それは余りにも当然なことの成り行きかもしれなかった。彼女は翼を操るための、訓練をはじめたのだった。はじめのうち、ゆっくりと伸ばすことしかできなかったその翼も、時を経て手足のごとく操れるようになっていった。動作は自然なものになってゆき、たとえば寝起きに伸びをするときには腕を追って半開きになるし、驚いて身を縮めるときなどには、背中に小さく引き締まった。木椅子に座るときは背もたれの後ろに真っ直ぐに垂れた。老人はそんな少女と向かい合い、がその変容には黙し、日々淡々と食事をした。
  リアス海岸の岸壁に沿った小径を下り、少女が町を訪れることがなくなってからというもの、ふたりの食事にはおよそ話題とするものが失われてしまっていた。もとより人々を擦り抜けるガラス玉のようであった眼差しも、彼女の翼が確かな形状をもちはじめてゆくにつれ、ますます掴み所のないようなものになっていった。食事の献立について老人が少女に問い掛けると、が確かにその眼差しは老人をしかと捉えているのだった。けれどその眼差しは地上のあらゆるものを擦り抜けていた。彼女が空を見あげその向こうを思い描くとき、また水平線へと広がった海原に雲の柱が多く立ち並ぶそんなとき、大気に響き渡るその声を、聞いたようになる瞬間があった。老人は岸壁に立ちつくす少女の、そんな背姿をいくどとなく窓辺から見ていた。潮風がその髪をうしろに流すと、翼が手の平を碗にするような形になり、老人はそこで瞬きをひとつ、次に見るものがまた一枚の絵画となった。老人が静かにそこで目を伏せると、絵画からふたたび、時がやがてという隔たりによって飛躍する。


  ── 3 ────

  少女が翼の訓練をはじめてから、海岸線の景色が精彩を欠いてしまうようなあの季節が、二度ほど過ぎ去った。いま三度おとずれようというその季節のなか、少女はいまだ、翼を操るための訓練をそこでつづけていた。はじめの一年には著しい進歩がみられたものの、羽ばたく力が身につかず、それからの成果は一向に上がらなくなっていた。しばらくは日によって良好なこともあり、少女はそれに励まされるのだが、反してまるで動作の揮わないような日もあるのだった。この半年というもの、技術は寧ろ後退しているといってよいくらいだった。けれど少女はこの訓練を、なにかの苦行を受け容れるかのごとく真剣につづけていった。いつしかその瞳は深く落ち窪んでしまい、華奢でありながら人形のように美しかったその肢体はやつれてゆき、ガラス玉のようであり無機質なその眼差しは、ここへきてなにかに取り憑かれた者のように、狂気の眼光をひそめていた。
  老人と向かい合い食事を交わしているさなかにも少女は、唐突に憤りを感じたようになることが少なからずあるのだった。不意にスープを掬っていたスプーンを円卓に打ちつけると、その瞳にはもはや潤すものが涸れたとはいえ、あたかもそれが零れてしまうことを恐れるように瞬きもせず、燭台の装飾を見つめたままになってしまうこともあるのだった。老人は表情もなくただそれを見まもった。神聖なるものへの憧れにより、取り乱してしまうことを恐れる思い、そして思うままにならない翼への憤りのせめぎあいに、懸命に呼吸を整えようというこの少女を。
  そんなある日のことだった。そのころ少女は邸宅の裏庭にあたる断崖のテラスで翼の訓練を行っていて、その日もまた同じようにそこにいた。その場所は奥まったところにあり、たとえ港から不意の来客が訪れたとしても、人目につくことのないような場所だった。午後の陽射しは陸側の山陰に遮蔽され、葡萄色の淡いフォトンの漂いが空間に満ちる時刻だった。その日は海からの風が普段よりも増して強かった。少女は水平線を遠く眼差したまま、その風を正面からの向かい風にうけ、翼で揚力を得ようという様子だった。
  老人は書斎の細長い明かりとりから、そんな少女の背姿をただ見まもっていた。淡い水色の修道着のようなものに身をつつむ少女が、吹きすさぶ風のなかに立っていた。広げられた翼は切り替わる風向きを捉えようと、移ろいのたびに右へ左へと傾いている。少し前傾になりながらも、細い腕を前へと垂らしていて、それは暗室で壁を探る人のような仕草に見える。この地方は海水の水質が原因で、荒波がつくる泡沫が綿毛のように風に舞うことがあるのだった。それがいましたたかになろうとしていた。藍色の絵の具を薄めただけで描き上げようといったような景色のなかに、幾つも綿毛が舞い上がり、少女の姿を掠めては、その後ろへと流れていった。彼女は少し爪先だちになりながらそこで、ゆっくりと風にむけ歩むのだった。
  少女の瞳に映るのは、色のない輝きを煌めかせる水平線までの水面だった。そこへいま数えるほどの海鳥があらわれ、それらは向かい風に高度を保ち、器用にその位置を守りながらも、かわるがわるに鳴いている。少女は顔をむけそのうちの一羽を眼差した。すると海鳥はむこうを向いたままの目尻から、少女をまるで注視しているかのように見るのだった。泡沫の綿毛がその間と向こう側を流れていった。不意に水面へと滑空をはじめたその群れを追うようにして、あろうことか、少女が断崖のテラスから踏み出した。
  それは老人が予見した通りのことだった。少女は老人の視界から直ぐに見えなくなったのだが、彼女は錐もみになりながら海へと落ちたのだ。少女はその回転する視界に、これまで一度も感じたことのないほどの恐怖、否、確かにこの恐怖を知っている、となにかをその瞬間に回想しつつも、かくのごとく額によぎるものをめまぐるしく変えながら、逆さまになって落ちてゆく。急速に近づいて打ちつける水面はまるで衝撃の塊のようなものだった。翼を引きちぎらんばかりの強い痛みが背中にはしり、すぐに荒波が摩擦する激しい水の音像がそれ以外の余白を埋めた。少女はそのなかで流木のように翻弄した。水は刺すように冷たく、着衣は重くなり手足に絡みつき思うようにならないのだが、空気をたくさん蓄えたその翼には、少女の痩身を大気へもちあげるだけの浮力があった。
  老人は書斎の明かりとりを離れると、力なく、がすぐに虚空を凝視して決然となり、窓辺に置いた木椅子に腰掛け、いつものように書物を開いた。彼はこれから起こると思われることに身構えていて、それだから書物にページが捲られるようなことはまるでなかった。そうしているうちに景色の退色が進んでゆき、海岸線はひときわそこで寂寥の色を深めるのだった。やがて玄関の扉が開かれる音がとどき、次に叩きつけられるような音がたつと、少女の力強い足音が、彼の待つ書斎へむけ近づいてきた。書斎の空気がすっかり彼女へと引き寄せられてしまうほどの、強い勢いで戸が引かれた。
  そこには全身水浸しになったまま、これ以上ないほどに目を見ひらき、躰をまるで痙攣のように打ち震わせる、少女の姿があるのだった。彼女は体重を踵に乗せたような立ち方で直立し、いちど背後へと傾くのだが立て直し、そこに血の滲むのではないかというほどに、ひときわ強くその瞳を見ひらいた。老人は床の羽目板からゆっくりと見あげてゆくような素振りを努力して、少女のその強い眼差しを受けとめる。少女は直ぐに老人へと駆け寄って、肘掛けに添えられるその手をとった。言葉はないが酷く呼吸を荒げていて、動作のたびに折れてしまいそうなほど細い首の喉もとに、その息を詰まらせる。老人はそんな少女に手を引かれ、書斎を後に、そして野外へと連れだされていった。翼の尖端が彼の握られる手の甲をこそばゆく掻いた。老人はこうして頑なに張りつめたバネのように動作する少女に引き連れられ、邸宅と納屋の囲い込む裏庭の中央に連れだされたのだった。少女は老人の手を離すと納屋に駆け込んだ。引き摺るように両手でもつ薪割り斧を持ち帰ると、呆然と立ちつくしたままの老人にそれを寄り掛からせ、あるいは涙とも思えるものを、あるいは髪からつたわった海水とも思えるものを瞳いっぱいに溜めながら、言葉を発しようとするがそれは叶わず、自らが渾身で握りしめている老人の手のなかに斧の柄をすべりこませた。見あげる瞳で訴えつつも、懇願するように握る手を揺らし、不意に手放すとしゃがみこみ、薪割り台に使っている切り株の上へ翼を押しつけるような格好で、どうにかその声を振り絞ぼった。こんな翼なんかいらない!こんな翼ならわたし無い方が良いもの!はやく、はやく、切り落として!そしてその瞳をしかと閉じ、嗚咽をもらし、躰を小刻みに震わせて、その歯が砕けてしまうのではないかというほどに、歯軋りをつづけているのだった。
  老人は頭だけを項垂れて、そんな少女を見おろしていた。青白い下腿を八の字に崩し、突き出した膝を抱えるようにしてしゃがんでいる少女を掠め、泡沫がまるで綿毛のように流れていった。彼はその手にある斧の柄を自分の力で握りなおすと、刃になった側を確かめて、少女の傍らへと歩み寄る。屈み込むと手の甲で、少女の鎖骨のあたりにそっと触れた。軽く押しやり、その背をあと少し逸らすようにと、そんなふうに促した。翼は切り株の縁に丁度良くあてがわれたようだった。老人の手が退かれ、すると少女は覚悟を決めたかのように顔を顰め、ほとんど直角といっていいほどまでにその首を曲げ、ただひたすらに震えている。老人はいま音の無くなった世界にいた。まるで自ら行う事の成り行きを、見とどけることしかできない者のようだった。彼は手にした斧を大きく頭上へと振りかぶる。そして力を込め、正確な位置にむけて、振り下ろした。いまや斧と一体となったような老人の手のなかに、翼を打ち抜き、そして切り株に食い込む刃の感触が、決定的な手応えとしてつたわった。少女が胸を突き出して跳ね上がる。その喉笛からは細く伸びる唾液の糸が放たれて、けれど一瞬で詰まるその呼気は、声になることもできないのだ。彼女は思考を埋めつくす鮮烈な痛みのなか、一縷にいま射し込もうという光芒のはじまりを見ているのだった。横向きに倒れ、両肩を抱きかかえるように身を丸め悶えるのだが、目にするものを漠然と受けとめるしかできない思考の目前に、映像はまるで風に捲られるページごときものだった。彼女は過去に翼を失ったその理由をいま、なんの感応もなく理解した。動作を失い、網膜の表面に記憶を再生してゆくだけの少女の、胎児のように躰を丸め横たわる姿が、そしてその傍ら呆然と立ちつくす老人の頭頂が、色の無い下生えを背景にいま、見おろせる。視点はいま、少女を空へといざなった、またこうして断崖に舞い戻る、海鳥のものとなっている。退色をつづける見おろしの景観を横切って、泡沫がまるで綿毛のように流れてゆき、そして滑空をつづけるこの視点は、ゆっくりと高度を上昇させ、風音を聞き、翼を傾け、しなやかに風へと切り込んで、少女の夢見たその飛行を、意図もなくが思うがままに。


  ── 4 ────

  季節が過ぎ春が訪れると、海岸線の岩に積もる堆積土に、小さな花弁をもつスミレの類が咲きはじめる。多くの花が淡い空色をしていて、大概それは、潮風に揺れている。またその色を白だけに限って、ツユクサの類も咲きはじめる。花のない植物もそれぞれの葉を広げ、海岸線は鮮やかな彩りに縁取られてゆく。
  少女は陽射しの溢れている窓辺にいる。木椅子に深く腰掛けていて、姿勢を正すように背筋を伸ばし、揃えた膝のスカートの上に、小さな手のひらをのせている。その表情は血色も良く満ち足りたものだった。そよ風に揺らめくカーテンのレースに包まれながら、眩しくはない光に輝いた水平線を、眺めているのだ。
  紅茶を届けに来てくれていた老人が、それを音もなく置き据えたこの部屋の暗部からいま、廊下へと向かった。ゆっくりと閉じてゆくこの部屋の戸を、少女はいちどだけその目にした。たったいま紅茶を届けに来たあの老人は、少女のことをアンジェラと称していた。けれど彼女はその名を自分のものであると確信できず、がそれをただここにある世界と同様に、受け容れることとしたのだった。考えることは何もない。深い霧が埋めつくすような眠りの淵から、わたしの意識は生まれたのだから。
  周囲に人の気配を感じなくなった少女は、不意に立ち上がると手を伸ばし、薄く開かれた長窓のガラスへと触れてみた。むこうには広大な空間がある。こんなに薄い隔たりと格子が、そこへの自由を阻んでいるのだ。
  彼女は海からの光に照らされる、自分の両手を眺めてみた。陰影を深める手のひらはとても立体的に見えている。手首のあたりに少しだけ青い血管が見てとれ、肘にむかいはじめると、それは皮膚の白さのなかにむけ埋没する。
  肘から二の腕にかけては、念入りに包帯が巻かれているのだった。それは腕から脇をくぐり背中へとまわり、何重にも巻かれ、平らなその胸をそれより更に圧している。腕を上げ、肩を回してみる。それほど不快ではないものの、彼女はそこに、ささやかな束縛を感じたのだった。
  ワンピースを肩から滑らせると、二の腕に止められた包帯の一端を見つけだし、そこから慎重にそれを解いていった。解くにつれ喉もとの窪みや細い鎖骨、そして貧弱なその胸があらわになった。すっかりそれを解いてしまうと、彼女は自らの躰をそこで点検し、外傷や疾患にあたるようなものがまるで見あたらないことに、束の間の戸惑いをみせるのだった。それならば患部は完治したに違いない。わたしにはなんの記憶もないのだけれど、躰はこの通り、すっかり健康になっていたのだ。
  裸でいることに心許なさを覚えた少女は、床に落としたワンピースの輪のなかで爪先を揃えると、その生地を手繰り上げ、それぞれの肩に細い肩紐を負わせたのだった。両手を対称に後ろへとまわし、下からひとつずつ対になるフックを止めてゆく。いちばん上のフックを止めるには、一方の手を上からまわすようにしなければならなかった。そのようにして両の手を背で出会わせると、そこにはなにか不可解な感触があるのだった。
  彼女は振り返るとあらためてこの部屋を一望した。寝台のむこうには老人がティーカップを置いていった横机があり、そしてその向こうには鏡台があり、その周辺はこの窓辺からは薄暗く見えていた。伏せられた背面の細工を輝かせ、手鏡が鏡台の上に置かれていた。彼女は歩み寄るとそれを手にし、窓辺に掛けられた姿見の前で振り返り、無限に奥行きを重ねる合わせ鏡を、自らの鼻梁と重ね合わせ、手許に見る。
  重なった像をずらしてゆき部分を見た。そこには一対になったなにかの痕跡のようなものがあるのだった。少女はしばらくのあいだそれを見ている。やがて手鏡を胸に抱くとその力を強めてゆき、ややあって唐突に上向くと、閉ざしていた目をあらわにし、正面を見すました。すきま風に舞い上がるカーテンが、そのくちもとまでを遮った。いまや一枚の絵画になろうという少女の、レースの縁でこちらを見つめている瞳のなかで、透過をはじめるガラス質の光沢が、絵画の色彩に慰めを受ける。

  <了>


2010/09/30 sai sakaki



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