チャイム
 著・榊蔡‐sai sakaki


  その角を曲ると、行く手はいちど、山塊の裾野に阻まれる。そこから潜る隧道の肌は、石灰岩を人力で穿った成り行きを模様にし、断層をつたう清水の香、日陰砂の香が、足取りにあたたまるこの汗、この頬に張り付く陽射しの記憶を、ゆっくりと洗い落としてくれる。肌も心も清涼に包まれるころ、隧道の奥に光彩は、光の白に葉の深緑が滲むグラデーション。近づけば光を増し、蝉の声をうねらせゆき、新しい好晴をこの目前に、光の密度で展開してゆく。記憶が、回想に手探りされるときに、映像と肌触りと呼吸の味が、それに添える心の在り方と共に結実するのに似て、果たして思い出の光景に、これ自体深く刻まれゆくだろうか、とそんな予感すらある。いま、足取りを続けるこの主観の心境は、残暑のさなかに春の歌を聞くような、そんな具合。
  隧道を後に、小径は左へと杉林の根を眺め続いてゆく。右手は落ち窪んでいて、雲海のような雑木の葉叢を、野鳥の視界で見下ろす楽しみ。しばらくこうして歩き、幾つかの歌を口ずさみやがて、これから辿り着くそこで過ごすであろう時間に心躍る予感のなか、鶯の声を聞き、額の汗を手の甲で拭い、いま左手に視界は開け、いつの日もこうやって視界は開けてゆき、山塊の山頂にブロッコリのような枝葉の萌えるその辺りに、目指すかな、その硝子の城を認める。ちょうどいま、山肌を雲の影が撫ぜ、黒々とさせ、過ぎると硝子の一つが銀色の放射をその軸に捩じらせ、絵画でいうところの白の限界を行ってみせた。女主人の柔らかい声、透明な眼差しを思い、僕の心にチャイムが鳴る。【chime:1,僕の心のなかで】
  斜路は乗用車一台が通れるほどの道幅で、舗装には酷使されぬそれのざらついた質感が残っている。頭上は掩蓋する左右の梢に縁取られ、その間を川のような空が流れ、雲は気まぐれに漂い、仰ぎ続けることの首の痛みで水平に戻ると、辺りはとても鬱蒼とした有様で迎え入れる。山塊をなかほどまでのぼり歩くと、岩清水の零れる足休めが在る。含めば手の平から口蓋、嚥下を追う体内の感覚が、冷水の緊張を順に知る。吐く息は春の息。屈む姿勢から立ち上がり見回す林間、益々息づくその空間を埋めている夏の大気に融和していく。僕はこの惑星に生まれたことを嬉しく思う。足休めの丸木椅子には腰掛けず、頂上を目指し足取りはじめる。
  時折振り返ると、つづら折りに昇る山塊の斜路を、木々の合間に見下ろすことができる。大きく曲り、切り立ちになる見晴台では、平地の小径や、この辺りに馴染み深い菜園が見下ろせ、そこまでの距離一つ一つが、時間の経過、行動の証しのような達成感を、呼吸の速度で充実させてゆく。絶えず山鳩のリズムが歩調に干渉し、思う足取りよりやはり早足になるが、そうやって自らの呼吸に耳を澄ましているうちに、目指す屋敷の門構えが、柱のように真っ直ぐに並ぶ木々の幹、歩調にあわせ擦れ違い、幾度も重なる幹の合間に浮き上がる。既に山道は尾根。いちど緩やかに下る傾斜が目前に開け、葉叢と下草に挟まれる林間の居心地が丸天井の講堂を作る。山鳩、そして鶯、風が吹くと枝葉は触れ鳴り、木漏れ日は針の連鎖。羊歯の若草色は枯れ枝の乾きを補い、艶やかな水の心地を忘れていない。僕は腕時計で時刻を知る。彼女との約束を、いつもと同じほど過ぎている。
  洋館の佇まいには、時の蓄積を感慨させる情緒が在る。辺りの雑木はその周囲で開け、降り注ぐその日の天候を浴びる屋敷の胸壁や洋瓦の光彩が、これまでの足取りで肌にした鬱蒼をひっそりと解決するのだ。近づくと少しずつ空が覗き、ここで必ず、山裾から見上げたあのブロッコリのような一画はどの辺りの枝振りかと詮索し、そして屋敷に隠れるようにして佇む硝子の城の上端との兼合いに距離を測るが、今日もまた、合点のいかない思いを味わされる。いつか上空からこの山塊を眺めてみたい、と手を掛ける西洋門は、黒い矛を並べた格子を向こう側に離れながら、錆と油の静かな摩擦を軋らせる。
  この庭先を万年に覆うのは、あまり血色の良くない芝のうねり。小径から入り込む車道を離れると、青白い踏み石が弧を描いて並んでいる。それは芝の葉丈よりやや高く、どういう訳か一つ抜かしで踏みしめたくなり、そうやって辿り着く扉に呼び鈴のスイッチを認め、勢い余った僕は、両開きの扉の一つに寄り掛かるようにしてそれを押す。電子音で模倣されたチャイムがゆっくりと鳴る。それは厚い扉越しに向こうへと朝子を呼びに行くようで、音の滑稽さそれ自体を横目にしながらも、彼女が振り返る様子を思いの眼にする。【chime:2,電子音の呼び鈴】僕は朝子の足音を耳にし、扉に寄り掛かる姿勢を正すと心のなかまでも正そうと息を鎮める。ノブが鳴り、保護剤に艶めく扉が押し開かれると、隙間から様子を窺うようにして想う笑顔が現れた。
「昨日はあれから、結局三時間も頑張ったんだから」
  一時の逡巡の後、話題を理解する。彼女は決まって唐突で、挨拶や前置きというものを知らない。まるで昨夜の電話からこれまでの時間が抜け落ちたかの、その面持ち。受ける相手は、瞬時にその欠落を付き合わされる。
「ああ。動力の世代交代ね」
  朝子は目笑し、扉を摺り抜けるようにしながら、エントランスに踏み込む僕に後ずさり御道化る仕草にする。
「結局ばらばらに分解しただけなんだけどね」
「後で見せてよ」
「ええ。影も形も無いって感じだけど」
「巧くいきそうなのかい?」
「わかんない。でも、まあ、ともかく、後で説明する」
  エントランスは二階までの吹き抜け。天窓より、少しだけ傾く午後の陽射しが柱を立てる。朝子の部屋着は、白亜に銀糸の刺繍が蔦草を絡める大陸のドレスで、僕が一番好きなもの。後ろ姿に、解けば肩までの淡色髪が、一つに結われ揺れている。洋館に暮らす朝子の生活、そして僕自身のだらけた生活の違和が、楽しげなリズムを踊りはじめる。
「冷たいものがいい?」
「あ、なんでもいいよ」
  朝子は僕の笑みを見ると首を傾げ、その訳は訊かずに御道化てみせる。僕はそれに目配せし、彼女の仕草を真似ながら客間に入り掛ける。彼女はキッチンへ向かい、シンクに辿り着くとその背でもういちど御道化てみせる。彼女は僕が立ち止まり、その背を眺めているのを知らない。洋館の造りに、そこは廊下を隔てる斜向かいで、幾つかの壁で跳ね返るようにして声が届く。
「だけど、暑さに負けず、よくもまあ登ってくるわね」
「ああ。良い運動だよ」声量を上げキッチンに返す。
「意地でも車で来ないのね」
  キッチンでは食器が触れ鳴っている。僕は居間に並ぶ赤革の安楽椅子に腰を沈める。「ここへは」息を呑み声をはりあげる。「山歩きを兼ねて遊びに来てるのさ。安い道楽だよ」
  キッチンでは食器が笑い声を立てている。蛇口から水が溢れる音は、どこの勝手口でも変わらない。ケトルをコンロに掛ける点火音が聞こえると、朝子が足音を近づけてくる。
「だからいつも考古学者みたいなカッコで来るのね」
「考古学者はこんなカッコをしてるかい?」
「ん、知らないけど」彼女は笑みにし、僕の半ズボンを見遣る。右の網膜の一部が淡いその眼差しで、澄んだ笑みのまま見ている。僕はまた、僅かにそれを見詰めてしまう。互いに視線を気づくと、やはり彼女が言葉にする。
「若ぶって。そんなにしても十代には見えないのに」
「おいおい」
「アルバイトの娘たちに少しくらい人気があるからって、気取り過ぎ、その頭も。なんていうか、もう少し、落ち着いた雰囲気?そういうのが必要よね、貴方には」
  澄まし顔で一息に終えた彼女は、誇らしげな眼差しをよこす。
「はい。朝子お姉さまのおっしゃる通りです」
  彼女は扉の框に肩を寄り掛け、胸の前で組む腕の片方を起こすとこちらを指差し、それを口調にあわせ前後させる。
「普段は生意気なのに、すぐに歳のこと言うんだから。だいいち一つしか変わらないのに、学年だったら一緒でしょう」
  なんども繰り返してきた遣り取りだった。朝子と僕は年度の両端、つまり約350日ほどの歳の差だった。彼女はこの話題に、いつも楽しそうに応じてくる。しかし子供じみた妬みせるその笑顔は、僕だけが知る朝子。人見知りと気位の高さに、大概の人は彼女に身構える。下界の友人たちは、僕と話す彼女を見ると決まって眼を円くする。
「朝子さんお湯!」
「え?」
「お湯、沸いてるよ!」
「もう、さんつけないでよ!」彼女は大袈裟に慌てキッチンに向かう。
「お湯!ほら、お湯!」
「さんつけないで!」
「はは、もう言ってないよ」
  コンロのスイッチが小さく鳴ると、ケトルの沸き立つ音がおさまる。
「ねえ、そんなに笑って、わたしのことバカにしてるんでしょう」
  キッチンから彼女が言った。僕はそれには答えない。
  朝子と出逢ったのは、僕がこの町に移り住んで半年ほど経ったころだった。当時の僕は、国道沿いのホームセンターでアルバイトをしていて、彼女は僕が担当するエクステリア部門の得意客だった。僕が初めて対応することとなったあの日、朝子はどこか場違いに見えるねずみ色のワンピース、そして南国の花弁をあしらえた麦藁帽子という姿であらわれ、売り場に陳列された煉瓦を一瞥すると不満気に首を傾げ、カタログを見せろと指図した。そのとき僕は、唖然とし口を閉じるのも忘れ、隣の売り場で空を向く幾つものパラボラアンテナよろしく、ともかくとこの女性客の方向に身体を向けながらその違和感に圧倒されていた。彼女の態度はいつも高圧的で、まるで店員に対する態度というもの心に決めていて、それを必ずしも演じ続けなくてはならないといった様子だった。二冊目のカタログで漸く気乗りした面持ちになると、青灰色の煉瓦を指差し透明なマニキュアで紙面を鳴らした。その指尖が示すのは、四辺をエッジが欠け落ちたかの風合いで再現した手の込んだものだった。僕が値引きはあまり期待しないでほしい、とその旨を伝え、見積もり書にペンをはしらせていると、彼女はガーデニングの柵やら門構えなどが組まれる周辺を散策し、庭飾りの小さな鐘楼の前で立ち止まりその鐘を鳴らし微笑んだ。これ、可愛いわね。素の表情を見たのは、それが初めてだった。【chime:3,四月の陽射しの下で】
  青灰色の煉瓦は、最終的に三度入荷した。彼女はデニムの上下でモルタルを練り、煉瓦を積み上げ花壇を造る。僕はドアに店名の入った軽トラックで、その度にこの山塊をのぼりそれを届けた。ある日の帰りに、ちょうどなかほどにある足休めのところで、郵便配達の車両に出くわしてしまった僕は、待避所のない斜路を屋敷の庭先まで後退したことを覚えている。局員は、すまないねと言い、手にする封書を振ってみせた。僕は、書留ならば彼女は奥の温室に居る筈だと伝えアクセルを踏んだ。家政婦が耳の遠い下界の婦人であることはそのとき既に知っていたのだ。彼女はいまでも屋敷にいて、今日もどこかでなにかの埃を拭っているに違いない。終始微笑みを絶やさず、決して僕とは眼を合わせない五十絡みの小太りな婦人である。
  煉瓦の配達が済んでからも、腐葉土や赤土の配達が在った。温室に運び込むと、彼女は例の高圧的態度で、こと細やかにそれらの置き場所を指定した。彼女は浮世離れした女性で、僕は元来の性質に拠り、そういった、言わば変わり者に対する興味を禁じ得ない。僕は彼女の態度を滑稽に思い、受け答えの所々でそれを顔に出してしまうのだった。憤慨するかと思われる彼女だが、どういう訳か笑顔にし、あの透明な眼差しをよこした。ねえ、私のことバカにしてるんでしょう。僕は答えない。可笑しくてたまらなかった。
  初めてこの居間に招待されたのは、それから間もなくのことだった。彼女は、ホームセンターのごわつく制服を安楽椅子の赤革に擦る僕に、熱いコーヒーをご馳走してくれた。僕は少し居心地の悪い思いを味わいながら、店員の身に起こる珍事を二三、少し脚色して話した。万引きをした中学生を僕が取り押さえ、事務室で説教し、更正を約束に見逃したときの話は、我ながら度の過ぎた戯曲になった。彼女は、コーヒーカップを口許に構えたまま、とても楽しそうに頷いていた。
  この居間は当時とまるで変わらない。僕の正面には、驚くことにマントルピースというものが在る。それは艶やかな大理石で組まれていて、壁を天井までつたい、床から梁までの間を隙間無く組み込まれている。どっしりと構える枠石の肩には、銀の燭代、どこかの海岸で笑う朝子の写真、恐らくはその十年ほど前にこの庭先でも笑っている彼女の写真、そしてゴルフクラブを片手に、照れながら振り返る正装した老紳士の写真が並んでいる。それらは冷たく静謐な、そして頑なな印象の塊として、時間の流れから最も遠いところに人知れず記憶される遺物のように見える。朝子の話によれば、この暖炉そのものも二十年以上も前に塞がれた儘ということだった。屋敷を取り囲む、木々の葉一枚一枚に拡散してから届く陽光が、居間全体を柔らかい光で包んでいる。
「誰が行かず後家ですって?」
  朝子が、言葉とは裏腹に慎重な動作で、ティートレーをテーブルに置いた。
「そこまで言ってないさ。自分から言い出してどうする」
  彼女は向かいに腰掛ける。肩を縮め、落ち着きないその様子で、しなやかな両の指先を擦ると照れたように小さく笑い、座り直す。
「この暑いのによく紅茶なんて飲むわね」ティーポットを傾ける彼女。
「なんでもいいって言っただけで、熱いのが飲みたいと言った訳じゃないよ」
  朝子はいちどこちらを見、手元を見、再び見る。「冷たいのがよかった?」
「ん、別に、これでいい」
  彼女は必ず何か飲み物を出し僕をもてなそうとする。それは常識的なことで、必ずや守らなければならない習慣らしかった。彼女は、咽喉が渇けば勝手に冷蔵庫を漁るような僕の下界での交友を知らない。それでもやはり、葉から煎れる紅茶というのは、さすがに好い香りがする。
「コーヒーがよかったな」
「もう、なんでもいいって言ったじゃない」いちど呆れてみせるのだが、すぐに真に受ける。「コーヒーにする?いれてこようか?」
「ん、これでいいよ」
  朝子は笑い、眼を伏せて息を止める。わたしのことバカにしてるんでしょう、それをいま言い淀んだらしかった。僕は紅茶の香りに良い気分になりながら可笑しくて仕方ない。彼女は僕に、砂糖とミルクをどうするか尋ねる。僕が答えると、彼女はミルクで飴色の液体を慎重に濁らせる。カップとスプーンが触れ軽やかな鈴の音を立てた。やはり見慣れたそのスプーンの柄には、器用に刳り貫かれた枠に下がり、小さなチャイムが揺れているのだ。【chime:4,ミニチュアのチャイム】
  カップを鼻先に近づけると、漸くミルクの匂いが分かる。それはまだ混ざりきっていなく、白い渦模様が、鼻先で回りながら曖昧に崩れてゆく。僕は朝子の右目の色を思い出す。彼女の網膜の一部はちょうど、こんなふうに溶けながら色を淡くしている。彼女は以前、それを先天性のものだと言った。勿論こちらから尋ねた訳ではなく、それは彼女から、無理に平静を装うようにして打ち明けられたのだった。僕はあの喫茶店で、笑顔を絶やすまいと努める彼女に、それを綺麗だと言ってあげたかった。僕は言わなかった。彼女は、窓外を歩く婦人が抱き抱えるポメラニアンを、可愛いと指差した。
「で、あのオンボロ時計はどうなったんだい?」
「ああ、あれね」紅茶を飲み込み、カップをテーブルに硬く鳴らした「だいたい計画通りにいきそう。ただ、問題は振り子なのよね。歯車の関係で少し速くなるの」
「ああ、なるほど」
「なるほどって、ホントに解ってる?」
「え?」僕は大体の察しがつくが惚けてみせる。
「ほら、適当に知ったふうなこと言って」
「はは、後で見せてよ」
「手伝わせるからね」
「なんでだよ」
  彼女は、ふんと鼻先で笑い、足を組み替えるとティーカップを鼻先に近づける。ミルクを入れない飴色の液体に、自身の微笑みを映している。
「温室に行かないかい?」
「ん?これ飲んでからにしましょうよ」
「持っていこうよ。それ、まだ入ってる?」僕は、液体のような光沢を持つ陶器のティーポットを顎で指す。
「あるけど、もう、なんというか、ほんと落ち着かないのね、桂太は」


  居間の窓辺から庭先にでると、敷地を裏手に回りこむようにして赤石の石径が続いている。それに平行し、屋敷の基礎に沿うようにして、雨樋の雨水を逃がす溝が続いていて、それは地面よりもやや高い。
「また、子供みたいに、なんでそんなとこ歩くの?」朝子がティートレーを胸に、ペーブメントから呆れてよこす。
「落ちるとワニに食われるんだよ。朝子も気をつけろよ」
  彼女は呆れて右を見る、左を見る。僕は少しバランスを崩す。
「へえ。ワニがいるのね。とても危険ね」
「ほら、朝子の後ろにもいるよ」
  彼女は立ち止まり、赤石の上でこちらを見ている。
「凄いな。怖くないのか」僕は両手を広げバランスを執りながら、心底感心した様子をテキトウにしてみる。
「ん。だっていると思ってないもの。それよりそこからどうするつもり?」
  水路は僕のすぐ前で、地中に逃れ終わっている。朝子のいる石径は、屋敷を回り込むようにやや離れ、裏手の温室まで続いている。朝子はほっそりとした白のドレスでティートレーを抱えたまま、興味を示すというよりも寧ろ、呆れた様子で立ち尽くしている。僕がなにをしようとも呆れるつもりがよくわかる。
「落ちないでね、桂太がサメに食べられると悲しいから」
「ワニだよ」
「海じゃないのね」
「南米だよ。マングローブとかが生えてる辺り。で、どうしたらいい?」
「だったらやめなさいよ」
「ちょっと眼をつぶっててくれないかい?」
「え?」彼女は小さく笑うと、その肩で御道化てみせる「わたしが眼をつむれば、きっと、桂太はサメからたすかるのね」
  呆れて眼を閉じた朝子の瞼は、陽射しを帯びて白くなった。僕は温室まで一息に走る。
  温室を囲むようにして、その葉を赤く染め始めたポインセチアが植え込まれている。この季節、跳ね上げ式の天窓はそのほとんどを開ききっていて、温室それ自体の室温は外気とあまり変わらない。僕はホームセンターでアルバイトをしていた八ヶ月の内、およそ二ヶ月を鉢植えの水遣りに費やしたので幾つかの品種をそらんじることができる。入り口から先ず目につくのは、艶やかな圧肉の葉に白い花弁を対比させるブライダルベール。右手には、それよりやや丈のある、造花じみた葉にヴァーミリオンの花もつクロッサンドラ、葉の一部を鮮やかなピンクに染めるメポニアの一種も在る。砂糖がけのような模様をもつヒポエステスは白と赤紫の二種が等分に在り、その合間からは灌木といっていいガジュマルが頭出し骨太いその幹をみせている。圧巻はインドボダイジュで、これは屋敷の二階と並ぶこの温室の天井にまで枝を伸ばし、全ての植物、そして僕たちを見下ろしている。その他にも、樫材で組んだ格子に絡むセロペギア、吊り鉢から垂れ下がるヘデラ・ヘリックス、水樽に所狭しと並ぶホテイアオイなど、僕の知らない品種まで数えたら限が無い。
  風通しのよいこの温室だが、やはり熱れた腐葉土の匂いに満ちている。それは僕を、決まってあの懐かしい気持ちにさせるのだった。子供のころ、母が物干し竿を組み合わせビニールを張った温室に潜り込むと、いつもこの匂いに噎せ返った。温室は翌年の台風で壊されてしまったが、いまでもその匂いは、自身の小さかった肉体の居心地とともに覚えている。桂太が大きくなったら母さんに温室を作ってくれればいいさ、母は破れたビニールと鉄パイプを拾い集める手を休め振り返った。結局それは、果たせず仕舞いだっだ。
「管理が行き届いてるでしょう」
「ああ。正直、これだけはいつも感心するよ」
  彼女は何か、僕が返すであろう言葉を迎え撃つつもりでいたらしい。いちど耳を疑うかの素振りをみせ、それから得意気な笑顔にした。僕は、まだこれほどこの温室が美しくなかった四年前の春に、モルタルを練る汗をタオルで拭い微笑んだ朝子を思い出す。彼女が組んだ煉瓦の花壇や通路の赤石は、いまも鮮やかに植物を見栄えさせそれらの根をしっかりと支えている。手伝いましょうかと尋ねると、いちど微笑み、すぐに気取った態度で、わるいわね、と言った彼女。僕はそれを手伝い、また、入り口のアルミ枠に寄り掛り眺めたりしながら、次第にここで過ごす時間が長くなっていった。ホームセンターのアルバイトは自主的に辞めたのだが、解雇されたと言っても支障の無い状態だった。
「紅茶。お茶にしようよ」
  僕は言い、可愛らしいサボテンを植え込む為に並べてある手の平ほどの鉢を一つ手にとると、大樹の盤根を焼きニスをかけた堅牢なテーブルの上に置き朝子を見遣る。彼女はティートレーをテーブルに置き、向かいの丸木椅子に腰掛けると、なんだ、タバコが吸いたかったのか、というようなしたり顔。僕は揺り椅子に腰掛け、それを後ろへ大きく傾けると、これ自体、以前に彼女から贈られた物である銀のシガレットケースから五本の内の一本を抜き取る。彼女は鼻先から覗き込むような仕草をする。今日はそれ、何本目なの?僕は一本目だと答える。この温室で記念すべき一本目を吸う為に、僕は今朝のコーヒーをタバコ無しで我慢していたのだ。僕はタバコなどというものに依存したくない。習慣ではなく、最も好ましい喫煙を楽しむ為に、本数を制限するのだ。一箱を何日もかけて吸うが為に、決まってポケットで捻じ曲がってしまうタバコを咥える僕を見た朝子が、この使い古しシガレットケースを僕にくれた。それから僕は、自身に、一日五本以上の喫煙を許したことはなかった。ケースの蓋に挟んである紙マッチを擦ると、火薬のいい匂いが鼻先に立つ。
「凄くうれしそうね」
  僕はゆっくりと煙を吐く。再び吸い込むと、煙が臓器を撫ぜる異物感がとても甘美に感じられる。微かに感じる眩暈と共に、とても落ち着いた心地になる。揺り椅子を大きく傾け、もういちど吸い込む。
「身体のこと考えるなら、いっそ完全に禁煙したほうが楽なんじゃないの?」
  僕は応えず、ミルクティーで咽喉を洗い、再び煙の異物感を楽しむ。
「どうしても辞められないの?」
  僕はこれ以上ないほどの満足を表情にし朝子に言う。
「辞めるつもりはないんだって」
  彼女は肩眉を上げるという、僕にも新しい、そして少しだけ悔しくさせるような表情をしてみせると、ティーカップを覗き込み唇をつける。父は一日に二箱くらい吸ってたかしら。僕はテーブルに横向きになる揺り椅子を大きく傾け、横目で朝子を見、煙を硝子の天井に向けゆっくりと吐く。煙はすぐに薄くなり、空との境を失って、見上げる焦点が向こうの鱗雲に移る。雲はとても薄く、和紙の製作行程を思い出させる様相で、上空に広がる清々しい天籟を、まるでそこに居るかのように聴かせてくれる。視界の端には、螺旋を描く鉄パイプが、その黒い曲線で空へと向けて挑んでいる。螺旋階段は温室のなかを、二階で面する朝子の寝室に向け昇っているのだ。彼女の部屋のテラスは、この、硝子でできた植物の城のなかに在る。
「今日はもう、水撒きしたのかい?」
「少しだけね」彼女が言った。「もう、あんまりいいの。夕方に少し撒くけど」
  僕は朝子の返事を、言葉ではなくただの声として聞いている。雲をじっと見据えていると、薄い層の手前に、それよりも薄い漂いがあるのが解る。それはあまりにも薄く、遠くからこうして見ているからこそ解るものなのかもしれない。
「あんまり湿気があると、根が腐る品種もあるの。だから水差しで少しずつ撒くの」
  地上から雲までの中間高度を、一羽の雀が過ぎる。風で飛ばされた紙くずのように翻り、振り返るような飛び方をすると、仲間の群れがその後を追ってゆく。
「カランコエとか、多肉種に多いわね、水を嫌うのは」
  僕は爪先で床板を押す。空の模様が大きく揺れる。そうなんだ、と応える。
  雀の群れが、硝子の天井の向こうでマスゲームをはじめる。まるで風に弄ばれる羽衣のように、変幻自在に群れの陣形を変え、視界のなかを往復している。はたして彼らは、群れ全体で単一の思考を共有しているのだろうか。それともなにか、連鎖反応の一つであろうか。
「ねえ。わたしその椅子気に入ってるんだから壊さないでね、というか、なんでわたしがこの椅子で、貴方がわたしの椅子にいるの?」
  硝子のすぐ向こうで、空を縁取る葉叢の一部に向け、雀たちが覆い掛かるように編隊を歪め舞い降りた。いまは姿がなく、葉叢のなかで騒がしいくらいに鳴き続けている。僕は、子供のころに絵本で見た、木の枝に整列する小鳥の合唱団を思い出す。小さな羽で楽譜を開き、色とりどりの四分音符を歌声にしていた。
「この椅子いいね」
  朝子は返事をしない。僕は揺り椅子を起こし、可愛らしいサボテンを植える為の鉢にタバコの灰を落とし、ミルクティーを空にし彼女に呼び掛ける。
「この椅子、凄くいいよ」
  立ち上がり辺りを見回すと、彼女は細いパイナップルのような幹を持つフェニックスの葉が、南国の様相で折り重なる向こうで佇んでいた。ティーカップを手に、肘を抱えるその姿勢で笑ってみせ、庭飾りの小さな鐘楼の鐘を指尖でつつき小さく鳴らした。いいでしょう、それ。【chime:5,九月の陽射しの下で】
  楕円形の尖端に、細い髭のような形状を持つインドボダイジュの葉が、温室に迷い込む微かな風に揺らめき女性的な淑やかさをみせる。かつては釈迦がこの下で悟りを開いたといわれるこの樹木を見上げ、そして並び、やがては見下ろす奥ゆかしさを味わいながら螺旋階段を踏み鳴らすと、一回りで二階のテラスに辿り着く。温室から辿り着けることに対する防犯処置として、窓枠には鍵穴が見え、また、硝子には警報の白い吸盤が貼り付いている。朝子が、テラスの照明の傘から鍵を探り出した。彼女は屈み込み、差し込む方向を間違えたりしている。テラスにはカンバス地の寝椅子が在り、そこには、キルトの膝掛けと二冊のペーパーバッグが載せてある。一つはフィツジェラルドのベストセラー、そして読みかけの頁でうつ伏せになる一方は、ヘミングウェイの短編集だった。僕はセンテンスを数行見ただけで表題を言える。ニックは釣果に満足し、豆入りスパゲティーを作ろうとしている。僕は日中の水面の煌きと、早瀬のせせらぎを思い出す。
「凄い有様でしょ?」
  寝室から朝子が呼び掛けている。僕は陽射しの頁に焼かれた視界で、ほの暗い室内に朝子を探す。彼女は窓辺に近づき明るくなりながら、カーテンをレールに一息で軋らせる。光に溢れる寝室には、床一面、柱時計の残骸が広がっている。
「ここで解体したのかい?」
  朝子は床一面に広がる自ら所業を、腰に手をあて見下ろしている。床板に敷いた四角い絨毯の上には、更に敷かれた新聞紙の上に、歯車や車軸が並んでいる。骨董的な木目の美しさをみせる本体に、白いムーブメントはローマ数字ではなく、算用数字が輪を描く。分解され跡形無いのは、樹脂でできた、どこにでもあるような円形の壁時計。朝子の話しによれば、それは昨夜、冠婚葬祭の引出物の山から見つけ出したとのことだった。見ればなるほど、ムーブメントに記載される二人の名は、永遠の愛により刻まれている。そこから電動のモジュールを抜き出し、古木の時計に息を与えようというのが、彼女の言う、動力の世代交代だった。これらが並ぶ絨毯の端には、それを話した昨夜ままに投げ出されたコードレスフォンが、辺に斜めになりながら息絶えている。朝子は一面の残骸を見下ろしたまま、肩で小さく溜息をつくと、呆れた様子で、僕のいる窓外の光にその頬を、額を染める。
「うん。そうなの。なんか、いま見るとめんどくさくなってきちゃった」
  ドレスの刺繍される銀糸がキラキラとしている。
「めんどう?」僕は可笑しくてたまない。「で、どうするんだい?」
「え?」彼女がこちらを向くと、肌がとても白くなる。どうしようか、とその白で照れるように笑ってみせた。
  僕はついに笑い出す。朝子は、床の残骸と僕を交互に見ながら笑い出す。僕はしゃがみ込み、ムーブメントの傍らで朝子を見上げる。
「針はもう動くのかい?」
  彼女はドレスの膝を揃えしゃがみ込む。
「うん。針は簡単なの。その、時計の部品を裏側からボンドで止めればなんとかなりそう」
「振り子はなんで動くの?」
「この錘」彼女は揃えた膝の前で、鎖に繋がれた雫型の錘を指差してみせる。「これが二個在るの」
  僕はその横顔を眺める。「それで、モジュールを組み込むために抜き取らなくちゃならない歯車を外すと、その分の抵抗が減って、振り子が速くなるわけだ」
「ん?」朝子は膝を揃えてしゃがむ姿勢のまま、顔だけをこちら向け僕を見詰める。「よく解ったわね」
「ちょっと動かしてみなよ」
「うん」彼女は立ち上がり、時計が文字盤の下でくびれるあたりを抱えると、錘が床に着かないよう、それを上げる。「どう?速いでしょう」
  錘が床板を離れた。
  僕は可笑しくてたまらない。振り子は少なくとも、地球上の時間を倍以上の速さで進めようと躍起になり、ひたすら懸命に、なにか重大な使命を帯びているかの如く、ただただ速い。それは文字盤の下にある木枠にぶつかりながら、時折、表面の硝子にさえぶつかり、真鍮本来の軽やかな鐘の音をたてているのだ。【chime:6,早巻き時計の振り子】
「ねえ、そんなに笑わないでよ。そんなに可笑しい?」
  僕は朝子を見上げる。彼女は、忙しなく勤勉な、この素晴らしい柱時計を抱えたまま、その横から覗き込むようにして困惑の眼差しをよこしている。僕は益々可笑しい。息がつけないので、どうしようかと思う。
「ねえ、そんなに笑わないでよ」彼女は時計を抱えたまま、身を捩り、振り子の動きを覗き込もうとしている。「そんなに速い?可笑しいの?」
  彼女はついに時計を下ろした。手の埃を払うような仕草にし、ドレスの腰に手をあて、左右をちらと見、僕を見下ろす。
  僕は彼女を見上げる。「ああ。ごめんごめん」
  朝子は少し涙目になりながら僕を見下ろしている。窓の外ではいま、葉叢のなかで雀が騒がしく、そよぐ風に枝葉が触れ鳴ると、鶯がその細く滑らかな音色を響かせた。余韻が林間を粛然とさせる。
「ごめん。今度は僕が持つよ、見ててごらん」
  朝子は何も言わない。僕を見ている。僕は柱時計を抱えると、振り子を彼女にみせようと、そちら向く。朝子はこちらを見ない。少し震えてからこちら向いた。
「ね。速いかい?」振り子の振動は、支える手の平にも伝わってくる。僕は再び笑いだしてしまいそうだが、懸命に堪える。彼女はいちどこちら向き、それから眼を逸らす。小さく鼻を鳴らすと、ついに笑い始める。
「なにこれ」声は少しだけ上擦っている。
「いっそこのまま壁に掛けたらどうだい?一日が短くなるよ」
  朝子は僕を見上げると、無防備な表情で笑いだす。目尻を縁取るその涙は、溢れずに少しずつ乾いてゆくようだった。彼女は振り子と錘の辺りを覗き込むと、これ、なんとかならないかしら、とつついたりしている。僕は柱時計を支えたまま、足許で笑うその声を耳にしている。彼女の部屋を眺めながら、適当な相槌を返している。僕は彼女の寝室に性欲を感じている。淡い色使いで澄んでいて、とても清潔な居心地が在るのだ。舶来のアールヌーボーで装飾されるスマートな箪笥と鏡台。さすがに天蓋付きなどではなくシンプルな寝台の上には、皺を延ばされたシーツとブランケット、そして夜着に羽織られるであろう肩掛けが重なっている。その向こうの出窓には、鉢植えのペペロミアと幾つかのエアプランツが並び、そして側面の風取り窓の縁には、硝子細工の風鈴が掛けられ、それはこうしてひっそりと、この山塊の木々がその呼気を風にするのを待ち侘びているのだ。【chime:7,この国のチャイム】
「ねえ、遅くするのにはやっぱり歯車を噛ませなくちゃ駄目なのかしら」声は、普段の彼女のものだった。
「錘を軽くすればいいんじゃないかい?」
「錘を?」彼女は振り子を覆う硝子扉を開けたり閉めたりしている。「ん?そうね。桂太って、時々鋭いこと言うよね」彼女は立ち上がり僕を見る。「鋭い」
「そうかい?」
「うん。でも、どうやって軽くするの?」
「中を刳り抜いちゃえばいいさ」
「どうやって?」彼女は少し驚いてみせた。
「僕の仲間に、おやじが旋盤工やってる奴がいる。そいつの家に持ち込めばすぐに削れるよ」
「でも、どれくらいの重さにするとか、そういうのどうするつもり?」
「ここでなにかちょうど良い重さの物をぶら下げてみて、重さが決まったら、それを持って行って同じ重さになるまで削ればいいよ」
  朝子は窓外の美しい木々を眺めながら考えを纏めようとしている。僕はその、淡い右目の網膜を、また少し見詰めてしまう。彼女の顔立ちはとても美しかった。だから僕は、その網膜を見詰め、彼女の横顔にそれ以上の美しさを感じてしまう。胸を打つ美しさというものは、どこかに悲劇的な欠点を持つものなのかもしれない。そうやって、ピアノの鍵盤に走る指尖の速度で、目にする者を扇情してゆくのかもしれない。真夏の圧倒的な空の下、地表の曲率を感じるような校庭の真中で、亀裂の入ったビー球を握り締める少年の手は、じっとりと汗ばんでいる。窓辺の席で、陽射しに罫線の溶けた真っ白なノートの上に置くと、それは光を、不思議な模様に分解してくれた。
「凄い!」朝子は両の手を合わせ打ち鳴らすと、胸の前で擦り合わせるような仕草をする。「その、削るのって簡単にできるの?」
  朝子は瞳を輝かせ僕を見ている。僕はずいぶん前に、彼女へ対する自身の在り方を、まるでとある戒律のように決意しているのだった。それでもやはり、思うがままに身を任せ、衝動が本心を打ち明けるとおりに、正直に、行動しようと思うときがある。
「ん?ああ。かなり難しいけど。僕くらいになれば、なんとかできるんじゃないかな」僕はできるだけ神妙な表情を作る。
「削るのは友達でしょ?」
  朝子は、とてもいいタイミングで返してきた。



  木漏れ日は角度を失い、葉叢の下だけで曖昧な揺らめきになっている。僕の背負うナップサックのなかでは、細い針金で纏められた裁ち鋏みと三毛猫の貯金箱、そして二つのティーカップがカタカタと鳴っている。それは本来の錘自体と共に、踵に重心の掛かるようなこの下りの歩調に揺れ、肩甲骨の上で座りが悪い。しかし持ち運びに優れ体裁の良い、例えば朝子の化粧水の瓶、和英辞典などでは、どうしても地球上の時間は再現できなかったのだ。僕は負い紐を肩に食い込ませ、痛み出すとその位置をずらし、朝子の言うように考古学者になったつもりで、山塊の斜路を下ってゆく。そうやって、下界に一歩ずつ近づきながら、洋館に住む、あの愛すべき引き篭もりの女性、その、決して失いたくない神聖、清潔な印象を、日常の呼吸に変えてゆく。
  足休めの湧き水を飲むと、行きに含んだときよりも硬質な味わいがした。立ち上がり、手の甲で口元を拭うと、下りから聞こえる息も絶え絶えなエンジン音を気づき取る。木々の合間から見て取れる郵便配達車両の赤は、細い斜路を低速で昇りくる。擦れ違い様に硝子の反射が途切れると、いつかの局員がこちらを見ている。真っ赤な四角い車両は、僕を通り過ぎると舗装を外れ、土手に乗り上げ、反対の土手に乗り上げるというようなことを幾度か繰り返し、漸く道幅に収まった。僕は丸木椅子に腰掛け、銀のシガッレトケースを開く。なかにはまだ4本のタバコが並んでいて、少し迷うが、マッチを擦る。煙は、吐き出すと林間の鬱蒼に浮き立つようで、とても青白い漂いになった。手元にはまだ三本在る。僕は、木々のあいだで川のような空を見上げ、世界に隠されたたくさんのチャイムを思い描く。【chime:∞,世界中で鳴り続けている】
  タバコを揉み消すと、真っ赤な配達車が戻ってきた。局員は僕を繁々と見ると、慌てて前を見、ハンドルにしがみついた。鶯が鳴いたので立ち上がると、地球の時間が、背中でカタリと、音をたてる。



<了>


2001/11/19 sai sakaki




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