デビルズ・ワルツ
著・榊蔡‐sai sakaki 天井の高い薄暗い洋室で、窓辺から遠くはなれた、木椅子に背もたれて眠っていた。片方の腕はすぐとなりにある円卓の縁にのせてあるようだった。そちらへと垂らした空疎な頭蓋は鈍く、また重く、私はちぎれてしまいそうなまでの首筋の痛みに耐えきれずに、そこで惜しまれる眠りの覆いを潜り抜けたのだった。目を見ひらくと円卓の上には、ガラス製の黒い灰皿が置いてあり、重力を反転させたエンジェルフォールさながらに細長い煙が、そこから虚空という奈落へむけて落ちていた。私は二度ほどまばたいた。背もたれを離れ咳払いをすると、それだけでジグザグになったシガレットの煙が、ゆっくりとそこで解けていった。 仕立ての良い黒いスーツの下と、胸のあたりに薄生地のフリンジが重なったブラウス、そんな姿のまま私は目覚めたのだった。円卓で背の高いコップのなかには、浸かった茎に気泡のビーズを纏わせる深紅の薔薇が、一輪だけ挿されていた。木椅子で寝ていたので背筋の所々に痛みがあった。天井の高い薄暗い洋室は長細い間取りで、全面である向こうの窓外は別の建物の肌色の外壁であり、そこには小豆色の雨樋が真っ直ぐに二本くだっていた。 次の呼吸で立ち上がろうという決意をいくどとなくおこなった。けれど足許の絨毯にむかい見おろしているこの肉体は、ここへきて冷ややかな痺れのようなものに満たされていたのだ。私の躰を円卓の上のコップにたとえるならば、まるで痺れという液体をあのように満たした状態が現状なのだろうと自覚した。不意にちからを込めてしまうと、私という容積を放電が駆けめぐり乱反射した。先に解けていったあのエンジェルフォールのように、粒子を縒り上げた痺れの糸が、一つずつ解けてゆくのを待つほかはなかった。 肉体に埋め込まれた砂鉄のようだった痺れの粒子は、液体に溶解する顆粒のような退き際で、私の肉に溶けて消えた。漸く力を込めることのできる私は、替わりに虚脱感が埋め尽くすこの躰を立ち上がらせ、左右の肩を通路の壁にぶつけてしまうその歩行で、シャワー室を見つけだし着衣を脱いだ。跳ね上げ式のガラス窓に照らされる浴室は等大の白い角タイルで敷き詰められていて、たったいま後にしたあの洋室よりむしろ、明るく思えるくらいだった。 掛けられたシャワーヘッドにむかって立つと、細長い跳ね上げの窓辺はなおのこと明るかった。窓外の光に照らされると、馬体のように引き締まった、この肉体の隆起があらわになった。しなやかで良く鍛えられた肉体だった。バルブをひねると褐色の肌の上を、まるでリノリウム床にばらまいたビー玉のように水滴が、滑っていった。およそ生活感のないシャワー室だった。積年の汚れというものが目につかず、ともすれば使用者と管理者が別であるような感があった。しまいに散水へと顔面をしばらくさらし、バルブを反対にひねった私は、脱衣所で壁に掛けられてあったクリーム色のタオルを手にすると、それを躰に纏わせた。 シャワー室を後にした私は、前面にちょうど掛けられていた、全身を投影できるほどの姿見の視線と眼差しを絡めた。タオルを足許の床に落とし、腕を捻りながら前に伸ばすなどして、この肉体の機能を試してみた。褐色の肌には癖のある真っ黒な髪が背中まで垂れ下がっていた。私は髪を集めると、濡れた繊維を絞るような要領で水気を落とすのだが、束ねるものを見つけられず、後ろになげだしたままにしたのだった。 クローゼットからブルージーンズと黒に近い灰色のタンクトップを選び出した。ジーンズはロールアップして履くデニムの柔らかいタイプで、タンクトップの裾だけにある薄色レイヤーはフェイクだった。箱詰めにされていた白いソックスに足を通した。靴は赤革でバックルの飾りが洒落たヨーロピアンを選んだのだが、その尖った爪先がロールアップしたデニムの裾と良く似合った。所持品が一つもないことが心許ないのだが、これから行うことになるその行為に、所持品が必要でないことは良く解っていた。 灰色のドアを押し開くと、即座に戸外の気温が包み込んできた。屋内から見ていた窓外の輝きが真昼としては薄明であったため、それは意外な程の熱気だった。冷房に緊張した全身の皮膚があらゆる段階を留意せずなめらかに弛緩した。大気に溶け出してもう二度と個体化できないのではと思われる瞬間を経て、私は重力と悪寒の混じり合ったようなものに追いつかれ我に返る。熱しられた街の石があげる乾いた臭気に噎せ返りそうになりながら、私は灰色のドアが並ぶ細い通路を歩き出した。 私にはむかうべき場所が解っていた。具体的に理解してはいないのだが、それは考えごとをしていてもいつの間にか帰宅する帰路というものにおよそよく似ていた。私が行う行為というものも予感していた。それはこれから会する対象との作用、反作用によって決まるのだが、もはや世界をその隅々まで歩き尽くそういう私にとっては、それですら予想の範囲にあるもののはずだった。 路地から路地へ色の褪せた古いアスファルトの上を踏みしめていった。良く鍛えられ無駄をそぎ落とした肉体は軽快に歩き、不意にゴム毬のように跳ね上がってしまうのではないかという余力の気配は全身にあった。後ろに投げ出したままにした生乾きの髪だけが不快だった。喉の渇きを感じはじめてはいたが、金銭はおろか所持品の一つもないことに思い当たった。 大通りに出ると、色とりどりに塗られた車が颯爽と擦れ違う車道のむこう、まだ新しいガードレールと灌木の植え込みのむこうに、市街地に一定の間隔で敷設されるもののような、緑地公園があるのが見てとれた。車の排気ガスを含んだ熱気が、通りのいたるところで渦巻いていた。私はガードレールを飛び越えると、車道を駆け抜けるタイミングをはかり白線の上をしばらく歩いた。それはヒステリックなクラクションを浴びながらの横断になった。バスストップやモールを歩く人々の眼差しから逃れるようにして、私は公園の敷地に入り込んだ。 目当ての水飲み場はすぐに見つかった。ニップル型の上に吹き出すタイプの蛇口であり、はじめにぬるま湯のようだった水はしばらくすると多少だが冷たくなり、そのあとでまた温かくなった。温度の所為か塩素臭が強かった。渇き半ばに衝動を放棄した私はくちをゆすぐと陽射しを見あげ、それを尻目にし、真夏の多く茂った葉叢がしっかりとした木陰をつくる敷地の奥を目指し、公園の歩道を歩き出した。 緑地はアーチ型の垣根により歩道から隔てられていた。小高くなった青芝の上を歩いては、ふたたび歩道にもどるようなことをいくどかくりかえした。レジャーシートを広げるグループのすぐとなりを通り過ぎていった。家族は笑いに満ちていて、そこでは唯一関心をよそに向けている年少の少年だけが、かくのごとく私をまじまじと見つめながら、まるで太陽を追うヒマワリのようになめらかな動作で、顔の正面をよこしつづけた。私は青暗い空の手前で太陽を背負い過ぎ去った大きな影を見た少年の視界を自分の記憶としていつしかきっと誤認するのだろう。とりもどした陽射しの暖かさを、自分の得た感触としてきっと再生し、がその経緯を、きっと探しあぐねるのだろう。 木陰を抜けて日向にでると、小高くなった青芝を下ってゆくこの私の正面に、周囲とその色調に違和をもつ、不安定な空間があるのだった。丸みを帯びて剪定されたツツジの葉がビリジアンになり、ピークでは葵色にすら見えたのだった。たったいま色彩を同調させ終えたその空間の中心には、アールヌーボーじみた鍛造フレームに剥き出しの木目を羽目板にするベンチがあり、その端に座るようにして、涼しげな装いの女が待っていた。 その女は、灰色のリボンのついた頭頂の丸い麦藁帽子と、オイスターホワイトのワンピースという姿だった。横顔の美しい大きなコリー犬を従えていて、この犬はこれだけの暑さにもかかわらず、舌をみせることもなく前方の一点を見すましていた。近づくときは見えていた女の青白い顔はひさしのなかでいまは見えていない。そのなかで微動だにせず女は言い、ともすればその声は、まるで背後から囁かれたように聞こえたのだった。喉が渇いてるんでしょ?そしてベンチの傍らに置いた筒型の水筒を手に取ると、蓋のカップに琥珀色の液体を注いでゆき、くちいっぱいにしたそれをこちらへ差し向けた。土星の輪のようなひさしが上向き、華奢な印象の、上目遣いが顕れる。 私はその顔を見おろした。少女のような装束がおよそ良く似合っているが、その眼差しは深く、まだ無垢な年齢であるとは言い難かった。私自身の肉体に反して、彼女の躰には、日常生活に最低限必要なだけの筋力しかないのではと思わせる細さがあった。これまで一度として麦藁帽子のつくる日陰からでたことがないのではという肌の白さがあった。しっとりとし量の少ない黒髪を背中で束ねていて、見あげてよこす眼差しにはクマがあり、それは落ち窪んでいて、こうした毅然とした振る舞いがなかったのなら、ずいぶんと違う印象に見えただろう。私は良く冷えた紅茶をそれとも知らず嚥下した。その冷たさだけは、この肉体のどこかが甘受していた。 頬を持ち上げる意識的な目笑で女はなおも立ち尽くす私を見あげつづけていた。そこで眉根をあどけなくし、世界を隅々まで歩き尽くしたですって?そして嘲笑するように眼差しをかたむけると、返したカップをふたたび満たし差し出してよこした。こんどは何を飲んでいるのか良く解りながら嚥下した私は、たとえどんな言葉を返そうが先回りされるのを充分に理解していて、ともすれば鼻先に構えたままのカップの向こう側に、黙ったまま女を見ていた。大気をひきつらすような声をたて、後ろのアカマツからセミの、比較的大柄であるだぐいのものが飛んだ。 カップを受け取ると水筒の蓋にもどした女は、大人しくしているコリー犬の頭を両手で包み込むようにして撫ぜ、その耳にくちを近づけて言い付けた。お前は先に帰ってなさい。私はこれから、この人とすることがあるの。犬は首をまわし主人をいちど見あげると、立ち上がり躊躇いもなくむこうへと歩きだした。女は首輪からはずしたリードを簡単にまるめると、ベンチの下にそっと置いた。 私はなおも黙ったままそこに立っていた。女の顔はふたたび土星の輪のようなひさしのなかに隠されて、私は自分の睫毛で輝く陽射しが、はやく泳ぐたぐいの魚の鱗のようなのを見ていた。女が、ワンピースのスカートの上で手を重ねた。肩を細くよせて上向くと、まるで少女らしさを演出しようという声色になって小首をかしげた。ホテルがとってあるの。別にここでも構わないんだけど、邪魔が入ったらつまらないでしょ?案内するから、わたしについてきて。ここからは少し歩くことになるの。 女は言うと、少女らしい活発さを演出しようとでもいうのか、立ち上がりくるりとまわした華奢な躰で、大手を振って歩き出した。私は白いワンピースのスカートを振り乱す活発なその足取りにつづいたのだった。白いローヒールについた造花のコスモスが片側だけなのに気づいたがやりすごすことにした。どんな姿にでも瞬時に変われるものがわざわざやっていることを話題にしてやることほど愚かしいことはない。どうせ回答は何通りも用意されているはずだった。話題が発展する仮想の枝先のすべてにはこの女の嘲笑があり、あまつさえそれすらも充分に演算され尽くされているはずなのに、わざわざ物理現象のうえで行ってみようというのだ。 植え込みに遮られる緩やかなカーブの向こうから、一組の老夫婦が近づいてきた。二人はチューリップを逆さにしたような帽子をお揃いにして被っていて、老人が前を歩き、そのすぐ後ろを老婆が、ラジオ体操の一節にあるような、腕を伸ばす運動のようなものをしながらにこやかに歩いてくる。二人とも良い歳のとりかたをしたという印象があった。二人とも単色の白髪で、贅肉のない美しい老人となっていた。夫婦そろって毎年受けている健康診断を翌年も終え、夫の大腸ガンを告知しなければならないなんて、老婆はまだ少しも気づかずにいた。 老夫婦はゆっくりと近づいてくる。この二人に対し、こうして立ち上がり前をゆく女と歩いていると、その身長差が良くわかった。けれどそれに気づいたのが誤りだった。女は振り返るとサタンの片鱗をみせるあの一瞬の注視のあと、とても愛らしい表情になって、私の腕に絡みついた。おにいちゃん、と言い、こんどは少し離れて振り返り、ワンピースのスカートをまわしてみせた。美しい老夫婦は仲の良い兄妹と擦れ違うこととなるのだった。夫を看取ったあとどういう訳かこの瞬間を思い出し、二人で歩いたこの公園のこと、陽射しの匂い、そして若き日々から選りすぐった思い出を美化し浸りながら、自分たちが見た者どもこそが魔の眷族であることに、少しも気づけないでいるのだ。 おにいちゃん、どうしてそんなにひどく自分を責めるの?老夫婦から離れてもその役柄をつづける女が、下から覗き込むようにして言ったのだった。私はその言葉に不意をつかれてしまい、ともすれば心が憐憫にむかう瞬間の傾きというものを、海溝のような深淵の水底に見つけ出すようなしだいとなった。私は即座に否定した。けれどこの連続的な作用をすっかり見て取ったにも拘わらず、女は本心から寄せる同情というものを、その眼差しに垣間見せた。私は最も恐れている存在の前で、たとえ刹那的にであるにせよ、鎧っていたもののすべてを手放してしまったのだ。私を記憶しているのはお前だけだった。何通りにもわたる膨大な宇宙、無駄に放熱されるカロリー、物理現象に落とし込んだものだけが真実だと盲信するカルト教、そのすべてがお前だった。 わたしたちはそれほどひどくはないって、わたしは思うけれど。女はひさしがつくる陰のなかで眼球の光沢をまわりこませながらそう言うと、さあ、と活発な少女になって、私の手を引いて歩きだした。それからは前をゆく麦藁帽子を這った葉叢の影が、細く白い腕から手へ、そして私の逞しい褐色の手から腕へと、つたってくるようなことが幾度となく繰りかえされた。喧嘩をする子供たちの声が木々の開けた広場から聞こえ、告発的な一方の子の泣き声がそのあとにつづいた。吹奏楽を練習するグループが近くにあるらしく、はたしてそのエチュードは繰り返されすぎたものなのか、怠惰な演奏として大気の底辺で揺らいでいた。無数の掻き傷がヘアライン加工のように陽射しを線にするステンレスの車両返しを擦り抜けると、公園の敷地の外だった。 女の手から解放された私は、そこからはその背を眺めただ歩いた。女はストラップで肩に掛ける水筒を、まるでポーチのように抱きよせて歩いていた。地階に閑散として無個性なエントランスを構え立ち並ぶ、中層の雑居ビルを幾棟も横目にしていった。ガラスに映る私たち二人の間には、同伴者として判断しかねるほどの距離があった。 車道には淀みなく、陸送のトラックやタクシー、営業の看板車などが流れていた。交差点で信号を待ち、かなりの音量でオーディオから流行歌を漏らす型遅れのスポーツカーの男が、車体からはみださせた肘の上で振る鼻先でリズムをとりながら、女の姿を目で追った。女はその少女のような装いにはおよそ相容れない、サキュバスのごとく婀娜めいた笑みを男にやると、即座に毅然とし向き直なおった。呆然と見たままでいる空間に差し掛かった私の姿でゆっくりと焦点を取りもどしたようなその男は、私の視線を感じ取ると、即座にその眼差しを逃がしたのだった。 代わり映えのない町並みがつづいていた。色褪せた中層建築の立ち並ぶ谷懐を、その気怠い都市熱のなかをひたすら歩いた。女は前を向き歩いたまま、いつしかその声量こそか細いものの、頻繁に往来する車の排気音やロードノイズのなかですら掻き消されることのない徹る声で私に言うのだった。幼さを感じとらせる声色と大人びた口調。私は女の少し後ろを歩くことで、空間に置き忘れられてゆくその言葉を、一つひとつ拾うようにしてそれを聞いた。 「それにしても、こんかいはずいぶんと旅したものね。なにか新しいニュアンスをみつけたのかしら、なにか新しい、楽しみを。そろそろ理由をとりにわたしのところへと戻るだろうって、ずいぶんと長い時を待った気がするわ。これだけ長いあいだ離れていたのは初めてじゃなくて?きっとすごくユニークなものを還してくれるんじゃないかって、わたし少し、期待してるんだから。」 言葉に対し、たちまち連想してしまいそうな意識を閉ざして、私はどこか見しらぬ高地で、人知れず山靄の濃淡に撫ぜられつづける、一塊の石榴石を思いつづけた。女はなおも行く手へ向いたまま装う嘲笑の声をたてると、分かったわ、その時までのお楽しみってことね、ふたたび似たような笑い声をたて、頬骨と眼球の端が見てとれるだけ肩越しに振りかえり、そして向き直った。 車道はやがて高架道となって、それから言葉なく足取った二人は、なおも地上を進みつづける、測道の歩道を河川まで歩いた。橋脚のつくるしっかりとした日陰が、真夏の陽射しから裸の肩や腕を解放してくれる心地よさが、等間隔でもたらされた。数羽のハクセキレイが、コンクリートの裂け目に根付いた雑草のむこうで跳ね、しきりとその長い尾を振っているのが見えた。絶えず頭上を擦れ違う車両のタイヤが、高架の継ぎ目を踏む音がいつまでも聞こえていた。ややあって目にした河川の川面は、真夏の重々しい積乱雲とこの都市を包むスモックの下、鉛色のパターンを交換しつづけていた。 すっかり落花を終わらせたハナミズキを街路樹に立ち並べる川岸は丁寧に護岸され、またその歩道には、階色をパースにして青白い切石が敷き詰められていたのだった。ディーゼル機関のタグボートが、河口の貨物港へ向かい鉛色のパターンを引き裂いていった。ちいさな波がコンクリートに届くとき可愛らしい音がたった。たくさんのウミネコが遠近に声を聞かせていて、滑空はそのあたりの風速を教えていた。汚染された排水の臭気に混じり、ほとんど清々しいといってもいい水の風が、首筋に触れる瞬間があった。 頭上で高架道が交差する広々とした日陰の真ん中で、それまで言葉なく前を歩いていた女が、なんの前触れもなく立ち止まった。川を縁取る青銅の手すりにその小さな手を置くと、対岸へ向け遠目を利かすような素振りをしている。私はそれにこの手が届くか届かぬかほどの距離で立ち止まり、手すりに躰をもたれかけるようにしてその横顔を見るのだった。女は水筒のストラップを肩から抜くと、それをむこうの肩へと掛けなおした。水の風が女の少ない黒髪とワンピースのスカートを持ち上げて、あたかも手の平から滑らせるようにしてちからなく手放した。横顔に見る女の眼差しには、心労を重ねつづけた者が纏わすような、それとした繊細な影があるのだった。 女はいつまでも何も言わなかった。言葉を待ち受けることに慣れた私には、なにかしら所在なさというものがあるのだった。なおも彼女が遠望しつづけている一点を目で追うと、それは対岸で川岸に設けられた、緑地公園の林だった。水上とそことの気温差の所為か、私にはそれが曖昧な画素のひしめきあいのように見てとれた。私は遠望から女の横顔へと向き直った。水の風がしたたかになると、女は首を縮め麦藁帽子を手でかばい、けれどすぐに風は止み、女はつばを持ってその角度を整えると、さあ、ゆきましょう、と笑ってみせた。 上流へむけしばらく歩くと、女は川岸の車道と直角に交わる、ひとつの路地を選び入り込んだ。統一感のないコンクリート工法による建築物の間を、路地は進むにつれ折れ曲がりつづいていた。陽射しはこの谷底にまでは射し込まず、見あげると乱雑な壁面の輪郭が、また空調の室外機がえがく堡塁のような縁取りが、対面へと輝きの輪郭を映していた。街に棲むハトやムクドリのような比較的大柄な鳥のたぐいが、切り取られた一瞬で終わる空の手前を、そして成り行くままに張り巡らせた通信ケーブルのすぐ向こうをよぎっていった。前をゆく女の肌やその着衣が青白く見えた。ときおり擦れ違う人々の手にする紙袋にはそれぞれ店名のようなものがプリントされていて、またややあって見えてきた陽射しの照らす明るい通りからは雑踏の喧噪が忍びより、どうやらこの先で路地は、繁華街に迎いれられるらしかった。 けれど女はその手前で立ち止まった。ガス灯を模したものを尖端にもつ鉄枠に下げられた綴り文字の吊り看板の下で立ち止まると、ここよ、と言い、どこか冷笑的な笑みで足許の敷石に視線を逃しその肩でおどけてみせた。それは通りに面する大きな棟の背後に、肩身を狭くするように残された、古い建築物であった。女が引き開いた木枠の扉には、ガラスに白いイタリックの浮き文字で、イーストエンドホテルと書いてあった。女からノブを受け取り屋内に入ると、扉に吊された鐘がカウベルのような音をたてた。 ロビーはなく受付のカウンターからは間もなく通路が向こうへと伸びていた。受付に立つ男は黒髪をすべて後ろに撫ぜつけた円眼鏡の男で、女の記帳を眺めつつ、こちらに瞬間の注視をよこした。男がルームキーを取るために振り返えり、すると電話台のテーブルに載せられたボードレールのハードカバーがその刹那に目に留まった。女がペンを置くタイミングを見はからって、男が鞣し革のトレーに載せたルームキーを差し出すと、それではごゆっくりどうぞ、とレコード再生さながらに距離感の希薄な声で言い、同伴者である私にも目笑をよこし頷いてみせた。 地階のユーリティールームを横目に廊下を抜けると、会する者こそなかったが、上り下りがどうにか擦れ違えるほどの狭い階段を、前をゆく女の踝を眺めるようにして踏んでいった。三階まで上るとそこが既に最上階だった。向こうからの窓明かりだけが照らし出す、幼稚にしたペルシア模様のようなパターンを繰り返す絨毯の廊下を窓辺である突き当たりまで進むと、女が鍵穴にルームキーを刺し込んで回し、すると鍵受けのなかで鋳鉄のすべる思うよりも重厚な音が、細長い静謐に滲み込んだ。それは大切な何かを閉じ込めて監房を施錠せざるを得ないような、なにか諦念を抱かせるような余韻を残した。あるいは地底深く隔離された檻のなかから、明らかに手懐けることのでないなにかを、尿意に震えながら解き放つときの、悔恨に似た響きとなった。 女は頭頂の丸い麦藁帽子を胸に抱くと、あたりを見まわすこともなく、室内を真っ直ぐに窓辺へとむかった。窓辺では野外の入り組んだ壁面を乱反射した陽射しがフォトンを泡立たせていて、女はかくのごとくあるものにその足許をやわらかく照らされていた。既に空調は調えられていて、裸の腕や首筋には、温度差というちからない圧迫があった。女は向かい合わせの安楽椅子に挟まれたローテーブルの上に水筒を立てると、赤革の張られたその椅子の一方に、頭頂の丸い灰色のリボンがついた麦藁帽子を置きやった。窓辺へむかう私へと、上体だけを振り向かせる。 「どう?なかなか趣味の良い部屋でしょう。」 私は女と入れ替わりに窓辺へ立つと、そこからこの室内を見渡したのだった。女の言うとおり悪くない部屋だった。古風に調度したのではなく、それぞれの備品が時と共に褪せたような古めかしさがあった。寝台はパイプフレームの簡素なものだが、寝具は充分に調えられ、またその横机に載せられたスタンドライトの真鍮細工も、ここからは品格のあるものと見てとれた。壁には控えめな色遣いで、一枚の風景画が掛けられていた。それはフィヨルドの湖畔に築かれた街の、収穫祭を遠巻きに描いたものだった。私は窓辺に佇んだまま、筆遣いの粗いその絵画のディティールを、想像と回想で補完するようなことを、それとは知らず行っているようだった。 「あのころのわたしたちは、まだたくさんのことが自由だったわね。」 女は言いながら窓辺に立つ私へと近づいてきた。私はそこで逡巡するが、女を見ずに言葉を返す。はじめて内耳に聞くこの個体の肉声には、論じることを生業にする者がもつような、どこか無機質な正確さあるのだった。 「自由ははじめから錯覚だった。きっと生まれ堕ちたときに手にしていた封書のなかには一枚の紙片があって、そこにはこの部屋の部屋番号が書かれていたんだ。」 「なんのレトリックかしら。」 女は上目遣いの笑みをみせ、私のもとへと一歩また近づいた。窓外を背にする私の影にすっぽりと納まってしまう女の額はすべらかで広く、引き締まった口許の下でその顎先がつくる輪郭は、切り出して造形したもののように細かった。私の影からはみだしたスカートの両端だけが太陽を隠す雲の縁取りのように輝いていて、女はそこに力なく垂らしていた手をいま平らな胸の前で組み合わすと、言葉のためのその呼吸で、私との間にある空間を吸った。 「あのね、どういう趣向にするか考えたんだけど、あなたには新しいことをしてあげるのが難しくなってきてるし、それでひとつ考えたの。これならどうにか温まることができると思うの。それに今回あなたに還してもらうものについては、さっきも言ったかもしれないけど、わたしすごく期待してるんだから。すっかり還してもらえるように、あなたを温めてあげないとね。」 私はそれに沈黙を返した。こどものように首を倒し一心に見あげてよこす面持ちを見おろしつつ沈黙を守った。けれどもおよそ思いつきもしない返答の代わりにと、私はその頬をこの逞しい褐色の手のひらでそっと包み、既にそこにある親指の腹で、クマを残す頬骨の縁取りを撫ぜてやった。発声にむけて女が舌を触れ鳴らす音が小さくたった。がそれから束の間があり、上目遣いのまま瞳孔を震わせた女は、消え入るように、が明確な滑舌で確かにこう言うのだった。 「全治三ヶ月くらいまでなら、わたし、我慢できると思うの。」 私には異議がなかった。そもそも同意というものもなく、いつの世もこの女と、ワルツでも踊るしかないのだった。私は女の頬を包んでいた手のひらを、女の鼻先を通り越すように退かせると、女がいま予測している刹那的な躊躇いもみせずに、返す手の甲で強く張った。女は声を漏らすことを堪えた。退く足でどうにか転倒をも堪え、この一撃に対するダメージに理解を深めようといま、その思考を総動員している。私はその間も与えずにたがう手の甲でたがう頬を強く張った。弾かれながら窓辺を離れてゆくその華奢な肉体を追い、細い肩を掴み捕らえると、女は自ら言い放った言葉への、急激な後悔のさなかにあるとでもいうような、そんな表情すらつくってみせた。私は利き腕の拳を固めると、その顔面を強打した。質量の軽い女の肉体は難なく弾け跳び、一人掛けの安楽椅子の肘掛けにその頭をバウンドさせた。もとあった座標での視界を一瞬で失い、経過も理解できず切り替わることとなった、安楽椅子にもたれかかる現在の視界のなかにある女はそこで、虚空の一点を見つめながら、自らの眼窩骨折を理解したらしかった。私はひどく冷静なまま一般に於ける全治三ヶ月という怪我の度合いについて考えていた。尺度については様々であろうが、女をその状態にするのには、まだいくらかの打撃が必要に思えたのだった。足の裏の感触がすっかり麻痺してしまっている足取りで私は女へと歩み寄る。女は頭を庇おうと包み込む両腕のなかで首を縮め、震わせた眼球だけでこちらを見あげると、なおも躰を折り曲げて、自らの体積を小さくしてゆく。私は横蹴りで女の躰を安楽椅子の側面にめり込ませた。インパクトの瞬間に女は、嫌、という言葉を最小限に縮めて言い、その直後に二の腕をその二カ所で骨折し、自らの肘が打ちつけた肋骨の一カ所に罅を負ったのだった。どうやら全治三ヶ月には余りあるようだと理解する、私の思考はいまに至ってもやはり鎮まりかえっていた。私は血のように熱い涙を顎の先から滴り落としていた。私は暴力の動作に摩擦するデニムのなかで、性器を最大限にまで硬くしていたのだった。 私はおもむろにファスナーを下ろすと、勝手な自我を芽生えさせ脈動する自らの性器を、押さえつけるデニムの圧迫から解放した。生地の縫い合わせをいくらか綻ばしてしまうほど荒々しく、先から動作に絡みつき気障りなタンクトップを脱ぎ捨てた。いまや安楽椅子にもたれかけさせた傀儡のようになった女のもとへと歩み寄り、まるで置いてあった頭蓋骨を拾い上げるようなかっこうでその下顎へと両の手の指尖を掛けると、首から下がついてくるがままにまかせ引き寄せて、その小さな口許に性器の尖端を押し当てたのだった。 自らの体重をその下顎で受け止める女は上手に口を開くことができず、彼女がいま渇望するのであろうこの性器を、いちどはくわえそこねたのだった。半ばまで含まれた性器の尖端がきつく噛み合った歯の前で唇をすべると、そこから溢れ出す血液と唾液がはっきりと二分する体液を引き摺りだしてしまったのだった。体液は青白いその頬に付着した。女は顔を顰めたまま感触だけで探り当てた性器をこんどはしっかりと口蓋に納めると、眉根を寄せて動作を待った。 私は見おろすと曲がり階段のように段を重ねる自らの腹筋のむこうで上をむく性器を、女の口蓋に押し込んでいった。女の下顎を両耳のすぐ下で捉えたまま、私は腰を前後させ、あるいはその頭蓋を前後させた。動作はただつづけられそこには快感というものがまるでなかった。抵抗のない肉と粘液のなかを、およそ熱の塊としてしか認知できないような代物が、前後しているだけだった。私はなおも力を込め、性器をすっかりその小さな口蓋のなかに押し込んでしまった。すると女の前歯が付け根の恥骨にあたる鈍い痛みが、爪の尖に火を灯すほどの快楽となったのだった。 女は呼吸を喘ぎ、力に屈し吐き出すことの叶わないこの性器の尖端を、それならばと飲み下すことで気道を確保しようという本能的な収縮でその喉を詰まらせていた。見おろすと私を睨視する眼球がゆっくりと裏返ってゆき、やがて撞球の手玉のようになっていった。窒息の寸前で一息に引き抜くと、女は比較的小さな魚のたぐいが、天敵から逃れるため分泌するようなものを、血糊を微かに含ませたまま吐き出したのだった。 折れていない方の腕で前屈む上体を支え、噎せ返ると水飴のように糸を引く唾液を下へむけ鞭打たせ、女は溺れる寸前で救出された者のようにその呼吸を過密にしているのだった。私はその呼吸が整うのを待つこともなく、女の髪を鷲掴み、するとついてくる肉体を作業的に窓辺へ向け放り投げた。女が躰を庇おうと突き出したのはしかし折れている方の腕だった。思わずに焼けた鉄に触れた者がするようにその手は空中で縮められ、女はその方の肩から窓辺に落ち、そこに敷かれた絨毯にまた同じ方の頬を擦りつけた。 投げ出された傀儡がそのままそこにあるように、女はうつ伏せに躰をくの字に折ったまま、腰を高くつきだして、いまだ呼吸を喘いでいた。白いワンピースのスカートのなかからは、筒状の細い太股が縦になり、膝の裏の窪まりはか細い腱に挟まれて柔らかい影の階調をつくっている。斜めになってこちらへ伸びる脹ら脛は私という背後の気配へむけ痙攣をしつづけている。その先には片方だけになったローヒールの汚れた靴底が見えている。私は女に歩み寄ると乱暴にスカートを捲り上げ、微かに失禁の形跡をのこす下着に指尖を割り込ませそれを一息に剥ぎ取った。 女は行為の趣向として、まるで肉感のないその性器を、とても陰部とは思えないほどのすべらかさで、乾いたままにしておいたのだ。それは向こう側でフォトンを泡立たせる光彩の陰となりどこか無機質に青白く見えたのだった。ふっくらとした隆起は石像のようにシェーディングされ、そこには下向きに中央で集まった癖のない陰毛が見えている。それはおよそ淫靡な欲求を募らせるものとは思えない部分だった。けれど私はそこへと自らの尖端を押し当てると、女の喉で充分すぎるほど絡ませた分厚い唾液が滑らせてゆくままに、一息ですべて埋め込んだのだった。 女は短く呼吸を詰まらせる声を喘いだ。過剰な潤滑で一息に分け入られた女の性器は、それ本来の熱を感じさせず、またその瞬間急速に緊張を帯びたのだった。それにも躊躇わず私は埋め込んだものを往復させた。絡みつかない肉のなかで、空回りするような往復をつづけたのだった。私はともすれば回りきってしまいそうに細い女の腰を両の手で掴み、打ちつける動作に小さな腰を弾ませるように前後させ、最深部で固く閉じた場所を突き上げることに、執着しようとするのだった。動作を激しくしてゆくと、厚地の絨毯に女の肩とその頬が前後して擦れだした。もはや腫れ上がり塞がってしまいそうな目とむこうの目で、肩越しに見あげてよこす表情の解らない眼差しが、そのたびにされるがまま前後していた。私は醒めたまま顎の先から滴っている血のように熱い涙が捲り上げたワンピースのスカートに落ちてゆくのを眺めながら、勝手に自我を持ち脈打つ性器の内圧を感じ、全身に血液を吐き出す心臓の鼓動、そして微細な粒子となったこの部屋の気体を激しく吸っては吐く自らの呼吸音を傍聴していた。私には自分がいまなにをしているのかが解らなかった。勝手につづけられる動作のなか、絨毯に擦れると頷くようになる女の腫れた横顔をただ見おろしていたのだった。女は表情のない眼差しでつぶさにこの私を観察していた。やがて体温も感触も音すらも解らなくなり、女の眼差しがすべてとなった。 音もなく前後する眼差しがすべてとなると、あたりに満ちている窓辺の輝きがぼやけてゆき、ことさらにフォトンを泡立たせるような、幾重にもわたる薄膜が覆い掛かった。陽射しの方向こそがはっきりと解り、そこからは光というものの漠とした暖かさが感じられ、そしてこの私の背後はというと、まるで深宇宙のように冷えびえとした虚無が、その甘美な誘惑が、事象の地平までその引力を誇示していた。周囲で点滅する光彩はまるで、叩いて形状をだしたブリキ材が傾けられてゆくように明暗を交換しつづけ、私はそこで一切のせせらぎを聞くこともなく、金色に輝く川面にむけこの女を組み敷いているような錯覚に陥った。私はそこで、ひどく幼い者になり、河原に堆積する丸石を積み上げているようであった。揺れている不安定な光彩のなかで、石の持つ僅かな個性を組み合わせ、できるだけ高さをだそうと、なにかモニュメントのようなものを築こうとしていた。けれどこの試みには完成というものがなく、私はいつしかこの塔が崩れることを知りつつも、どこまでも石を積み上げなくてはならない。私は慎重に石を積み上げる、やがて最頂点でこの塔が崩れるのを願い、同時にそれを恐れながら。最後の丸石を頂点に翳したとき、崩壊というものの甘美な予感が、そこでいっせいに感触を取りもどした肉体のなかに満ち溢れた 私は底知れぬ虚空である背後の冷気にむけ、弾かれたもののように腰を退き女から性器を抜き取った。全身を強ばらせた私は、射精にむかう肉体的なプロセスを、器官を痛みに震わせながら途絶えさせた。けれど微かな刺激で崩壊をきたしてしまいそうな、まるで際立たせたダガーナイフの尖端に立つような時が、そこからは経過された。 苦痛に耐え顰めていた瞼を開くと、私の決断を理解した女が、下からその憎悪に満ちた眼差しで見あげていた。女は折れているはずの腕もかまわずに素早く身を翻すと、咄嗟に伸ばした両脚で私の躰を挟み込もうとするのだった。私は渾身の力でその脚力を剥がそうとした。鍛えられ逞しいはずの私の肉体は、束の間だが女の強い意志力と拮抗をみせた。硬直する女の内股に堰を切る寸前である性器の尖端が摩擦した。私は最後の力を振り絞って女の下肢を引き剥がした。弾かれるよう後退ると、ローテーブルの上におかれていた黒いガラス製の灰皿を鷲づかみ、それへとむけ、快楽とは程遠い、まるで火掻き棒を抜き出すような体罰により、自らの精液を大量に垂れ流したのだった。 ゆっくりと整ってゆく呼吸を確かめてゆきながら、私は手の平に載せた黒いガラス製の灰皿を半ばに満たす、自らの因子を眺めやった。背景の黒い光沢と滑らかさの上で、それは水滴よりもしたたかな表面張力により、ひどく立体的に見えたのだった。それにはそのなかに精が混じりきらず、むこうが透けて見える部分もあった。灰皿からはみだした僅かな量が、手の平、小指の付け根から、冬季の氷柱のごとく垂れ下がっているのだった。私はこの灰皿を持ち替えると、こちらを睨視しつつたじろぐような格好でいる女へと投げやった。それは水平なまま女の額にあたったのだった。それにより割けた皮膚に付着した精液が、後から湧き出した色の濃い血液と混じり合い、二色の配色はまるで、コンデンスミルクのなかで押し潰したストロベリーの果肉のような様相となった。私はこのすべてを嘲笑うようにして、次の瞬間にはきっと言い放つ。 「欲しいなら、自分の指で導けばいい。」 「そんなんじゃ意味がないって、あなただって知ってるでしょう?」 たじろぐようにして後退していた上体を起こした女は、斜めに揃えてゆきながらその膝をたたみ、そのむこうで、折れている方の腕を躰に添えるように抱き寄せると、俯いて自らの爪先にその視線を落としたのだった。片方の眼は赤と青に腫れ上がる瞼に塞がれてもはや完全に閉じていた。たがう一方の眼の睫毛には、重々しい精液の塊が付着していて、それを障害とするまばたきがこまめに繰り返されていた。女は額から垂れ下がる精液を指の関節で持ち上げると、そこに付着しただけの量を、粘液が糸を引くがままにまかせ、その口に含んだのだった。 「このなかには、いったいなにが入ってたの?」 私は女を見おろしていた。自ら決意したこの選択にいま、自信を失いつつあった。 「ひどくくだらない情報のスクラップだ。たとえばそう ─── 作曲が自らの創作であると信じられなくなった音楽家。語感と語意のふしだらな相関性に、辟易とした碧眼の詩人。いずれはその自由を捨て値で売るはめになる、路上生活者。真理を擬人化してきた者たちの利己的な願望、やがて知る代償 ─── そもそもそう、意識など肉体の遊具にすぎず、中枢は末梢の従僕にすぎない。理解など記憶に見あわせた部分的な入れ子にすぎないし、真理はどこまでも相対的で、いつまでも現象の泥沼を浮かんでは沈み、沈んだ後にはまるでそう、まるでそれは、夢のようだ。」 「回文のようなものではぐらかすのはやめて。」 私は女を見おろしていた。 「知っているはずだ。世界を隅まで歩いたんだ。もうなにも残ってはいない。」 「わたしはまだすべてをここで失ってはいない。」 「君は底なしにできているからさ。」 「わたしはまだ、返してゆくことができる。」 「君はそう、底なしだからさ。いつまでも繰り返しに、瞬間の継ぎ目に近いようなタイミングで、あらゆるものに烙印を押したがる。」 「わたしは、 けれど女はそれ以上言わなかった。はじめから説明のつかない自らの理念を、盲信する勢いをそこで失いつつあるようであった。私たちのあいだには、とても儚い理解というものの前兆を帯びたなにかが、そこで生まれたようだった。それにより女は、私がいま望むものを、どうにか理解したようだった。 「最後にわたしのこと、名前で呼んでくれる?」 「さようなら、フィメル。」 「ありがとうメイル。本当の別れには、きっともう少しあるんだけれど。」 私はそれまでの会話のなか掻き集めていた衣類をこの疲弊する躰に纏わせると、女が最後にいう言葉の意味を、ひとつの未来回想のようにして受け取った。私はけっきょくは私たち以外が足にすることはなかったのではないかと思われる静謐の廊下を床板を軋ませて駆け抜けると、人がその上り下りでようやく擦れ違うことができるだろうという、壁材が狭く囲い込む階段を革靴の底を鳴らし下っていった。 地階まで響いた足音を耳にして待つ受付の男は、かくのごとく正した接客の姿勢により、どこか哀れみを忍ばせるような眼差しで駆け抜ける私を見おくった。扉を押し開くとふたたびカウベルのような音がたち、私は左右に伸びてゆく入り組んだ路地の一郭に、夏の熱気を力なくとり冷ます石灰の臭気に包まれたのだった。私は繁華街にはむかわずに来た道を選んだ。けれど河川までは戻らずに、途中で枝分かれする隘路のなかから、できるだけ人気のないものを選び駆けていった。 迷路のように入り組んだ薄暗い路地で眼にするのは、出会い頭に息をのみ見あげてよこす老人や子供の、好奇に満ちた眼差しばかりだった。私は石堀に沿った窮屈な菜園のすぐ横を駆け抜けては、また廃棄された家電製品が山積みされるガレージのすぐ横を駆け抜けていった。あたりはやがて住宅街の様相を呈し、路地は河川の方角を下にする傾斜の上にその網の目を敷き広げていた。中層の建築物はおよそなくなり、古びたアパートメントや思いおもいに乱立する高級住宅の屋根から射し込む陽射しが、私の肌を否応もなく焼きはじめていた。 私はこの背の中央に埋め込まれた熱球のように、あの部屋に残した女の存在をいまだ感じつづけていたのだった。すこしでもその座標からから遠退くためにと道筋を選び、熱気の淀んだ住宅街の路地を上り、またときには下ったりした。私はなぜこのような逃避行をつづけているのか理解していなかった。解っていることと言えばこの躰が切実に水を欲していること、そして走り続けることの限界を超えてしまっていることくらいだった。私は荒げる呼吸で熱気を吸い込むと熱の籠もる呼気を吐いた。馬体のような褐色の肌に濃厚な油膜の汗をつたわせては滴らせ、それを焼け付いたアスファルトに染み込ませた。乾ききった舌の根には膠のようなものが付着していた。両腕をだらしなく垂らしたまま、どうにか次の歩を差し出しながら、ぬるま湯のような空間をただひたすらに、掻き分けていった。 呼吸に霞む記憶の果てに、私はいつしか旧知の景観に包まれていたのだった。それは小型車がどうにか通り抜けられるほどの狭い路地だった。左右はコンクリート塀に挟まれていて、前方はその塀があわさった袋小路で終わっている。そして行き止まりとなるそのすこし手前には、小高くなった一方の分譲地から、塀にまじわるコンクリートの階段が下ってきている。見あげるその頂上にはブロッコリのような雑木の葉叢があり、その向こうには輪郭のはっきりした夏の雲が、そしてそちらからは、かしましいセミの鳴き声が降り注いでいた。 私はこの既視感のなか茫然自失となり立ち尽くした。あの部屋に残した女の動向がいま、手に取るようにはっきりと解った。女は窓外のやわらかい光に片側を照らされながら、姿見に写る鏡像にいま見入っている。腫れ上がり完全に塞がった瞼にそっと触れると、血液の凝固した額の傷口を指の腹で、愛おしげになぞっている。表情することの難しいその面持ちをうっとりとさせると、折れていない腕の手で頬をつつみ、鏡像の自分を覗き込む上目遣いで、小首を傾げ、そして悪戯に笑ってみせた。すべらかな白い肌に這う繊細なコバルトのドローイング。女はその鏡像を背にこちらへと振り返り、少女のように清らかな声でいま、歌うように唱えはじめる。 オオカミさん オオカミさん 雪に閉ざされた荒野を彷徨う とびきり空腹な五匹のオオカミさん いまからあの人のところへいって すっかり食べてあげなさい あたりのセミがいっせいに黙り込むと、幾つもの硬い肉球が石灰の表面を叩く音が、この時節ありていな通り雨のはじまりを思わせる音響を、見あげるむこうから聞かせはじめた。路地を曲がり階段を下りはじめた獣の群れは、落差を流れ落ちる奔流のように一体となるなめらかな動作でいま、こちらへと来る。それは鍛え上げられたこの肉体の鼓動とまったく同じ音階で咆吼し、鼻先を下に肩を聳やかしこちらへと迫る。私は身を翻し袋小路に背を向けると、そちらへむけゆっくりと慎重に後ずさった。鮮明に予見できる明確な結果を前にして、これを背水の陣とし、この肉体の機能をためしてみる他に、選ぶ道はないのだ。 こちらへむかい飛び上がるしなやかな獣の動作、そこには一切の無駄も飾りもなく、私はその美しい跳躍を、緩慢な時間経過のなか鋭利なまでに覚醒した感覚により捉えたのだった。私は狙う一点に全神経を注ぎ込み、次にとるべき肉体の動作を狂信的なまでにイメージした。繰り出すと拳はそのイメージを正確にトレースし、その瞬間、それは獣の横顔を見事なまでに捉えたのだった。けれど弾き飛ばされたのはこの肉体の方であった。流れるような動作からは思いもよらぬほどの勢いと重さが、拳から肩へと抜けていった。ひるんだ私の二の腕を二匹目の獣の牙が捉えた。犬歯が皮膚を破り筋組織を貫いてゆくその過程が、緩慢な経過のなかつぶさなまでに感触されてゆくのだった。私はその大きな顎を振り解こうと遮二無二なって躰を捻る。けれどその肢体はあまりにも重く、そして強靱な顎はしっかりと私の骨格を噛み合わせている。動作を失った肉体に次々と獣が襲いかかる。すぐに緊張を帯びる太股に、そして嫌な音を脊髄に残し、耳の直ぐ下で首筋に、その牙が刺さる。荒げる獣たちの鼻息を間近に聞きながら、私にはいま、獣たちが純粋に私という肉塊を求めているということがはっきりと解った。その欲求には愛のように不純なものは一つもなく、それでいてまた、それは愛というものにやはり似たものだった。彼らは私という肉をいちはやく嚥下し空腹を埋めようと、牙を刺し込んだ頭を振り、先まで個体であった私から肉片の一つひとつを引き剥がしてゆく。獣たちの悪臭に満ちた唾液が、私の割かれた肉のなかで、私の血液と混じり合う。私にはもはや痛みという概念がなく、ただ一様になった熱のなかで、私はすべての成り行きを甘受できるほどの恍惚に抱かれていたのだった。獣たちは温かな海であり、あたりに満ちたこの大気も海であり、そもそもこの惑星のすべてが海であることがいまはっきりと解った。私はいまこうして一つの境界を失う、獣たちの飢えを満たしたというささやかな歴史的干渉を残して。私にはもはやこの視界しかない。空に溶けあった太陽のあたりを眺めていると、陽射しというものの感触を、けれどまだ少しだけ、思い出すことができる。そのとき何かが空を隠し、私の眼球が冷えていった。 女の笑い声だった。一点を見あげるしかない私の視界にはいま、覗き込む女の黒い影があり、そしてその向こうでは、陽射しを半ばに透過する水色の日傘が、その縁に太陽を飾っている。日傘が悪戯に回されると、その笑い声と共に、こちらへ落ちてくる陽射しが全面で、点滅するのだった。獣たちは女を襲わない。女は私の解体を見おろして、戯れる自らの子にむける微笑みのように表情をするのだろうが、けれどその面持ちは陰になり、実際には見えていない。 「あなたは例の何もない暗闇のなかを一兆キロ歩くの?わたしはその一兆キロのあいだ、ひたすら待つしかないのかしら。」 女は獣たちを避けながら私の視界を回り込む。 「それともすべてを否定して、新しい宇宙になるつもり?」 いみじくも一つのニュアンスを示唆した女に、私はきっといま言葉を返す、そう、それは何のレトリックだ、と。けれど声帯は震わずに、そもそも発声するということのプロセスが、すっかり思い出せなくなっている。 「いったい何のレトリックかしらね。」 女は控えめに可愛らしい声で言うと、それまで悪戯に回していた日傘を、その背にむけ傾けた。その細い顎を上むかせ、すっかり元通りにした面持ちで真夏の厳しい陽射しを見あげると、これから歌いはじめる者がするように、たくさんの空を吸い込んだ。息を止め胸を強ばらし、瞳を再現なく大きくし、するとすべての現象が、矢になってその網膜のなかに落ち込んでいった。初めに光があったように、終わりには光の消滅がただ、あるのだった。 <了> 2008/11/30 sai sakaki |